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大阪交響楽団 第204回定期演奏会|小石かつら 

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201699 ザ・シンフォニーホール
Reviewed by 小石かつら(Ktsura Koishi

<演奏>
指揮:ロレンツォ・ヴィオッティ
ピアノ:長富彩

<曲目>
リヒャルト・ワーグナー:ジークフリート牧歌
フランツ・リスト:ピアノ協奏曲 第1番 変ホ長調 S124
セルゲイ・プロコフィエフ:交響曲 第5番 変ロ長調 作品100

もしも私がシューマンだったら、「諸君、脱帽したまえ。天才が現れた」と書くのだろうか。と書いて、ふふふ、といたずら笑い。ヴィオッティは真面目そうだけれど、冗談も理解できそうな好青年。だから、もしも彼がこの文章を読んだなら・・・と想像してしまったのだ。
開演すぐの『ジークフリート』の冒頭、弦楽四重奏のあいだじゅう、ヴィオッティは演奏を完全に奏者に任せて、ただじっと、立って耳を澄ませている。それだけで、香りたつ存在感。全員が演奏し始めてからも、控えめな指揮がほどよいやさしさを充満させて、オーケストラ全体にしみわたる。それを受けたオーケストラは、密度の濃さを感じさせないでいながらも、充実した響きで応えていた。

ところが控えめな指揮が仇となったか、リストは少し残念だった。ピアノの上手なお嬢さんと当たり障りのないひとときをたのしむ、といった趣向。リストのピアノ協奏曲には、確固たる意志と地鳴りのごとき迫力が不可欠だと再確認した。

一転、プロコフィエフの交響曲は、シャープな大音響とでも言おうか。きりりとして端正。とりわけ、引き締まった打楽器が演奏を支える。打楽器陣が「入り」の前に大きく呼吸をする。その無音が気迫となって伝わってくる。タンバリンが止まる音が聴こえる。研ぎ澄まされた瞬間が、次から次へと迫ってくる。戦慄のはしる作品との丁寧な対話。一人一人の演奏者との丁寧な対話。その過程のすべてが、透けて見えるような演奏だった。圧巻だった。

ヴィオッティの紹介文は、マルチェッロ・ヴィオッティの息子であることから始まる。名指揮者の息子。彼の場合、それは、とても自然なことだ。心の内は知らないけれど、気負いも、何らの特別性もない。繊細な感性と、とぼけた雰囲気と、その下から時折見せる隠しきれない知性。演奏後、オーケストラが指揮者をたたえていて、こちらまでうれしい気持ちになった。

話はそれるが、プログラム冊子がよい。「9月、10月号」となっていて、日付順に第204回定期演奏会、第25回いずみホール定期演奏会、第93回名曲コンサート、第205回定期演奏会といった「趣旨の異なる演奏会」が、同じ切り口で紹介されている。まずこれがいい。プログラムを複数回分まとめるのは制作費の削減が目的だったはずだが、受け取る側にも利点の方が多い。つまり、ネットで情報を得ることが多くなった昨今、読みたいものに的を絞って能動的にアクセスするあまり、「周辺」が見えなくなってきている。辞書にしても新聞にしても、前後や周囲といった、本来の目的でないものが目に入るからこその益があるのに、だ。この作品が聴きたいから、この演奏者に注目するから、定期演奏会の会員だから、という理由で、はからずも周囲を閉ざす我々に、ごく自然に、大阪交響楽団の全体をみせてくれる。

関連してもうひとつのすてきなところ。それは、楽団員の紹介があるところだ。おそらく2ヶ月に1回という制作期間のゆとりから生まれた企画だろう。楽団員にインタビューし、音楽評論家の小味渕彦之がまとめている。本当にうまく話を聞いて、それを丁寧に編集して、とんと満腹の読みごたえ。特におもしろかったのはファゴット奏者の藤崎俊久が語る「オーケストラの中でのファゴットの役割と魅力」。曰く、漫才のツッコミ役。「花形の楽器がいくらナイスなボケをしても、ツッコミが悪いと笑えない」という藤崎のナイスなツッコミに、なるほど、思わず膝を打った。

帰宅後、自宅でプログラムを再読して、当夜のプロコフィエフの冷ややかで鋭利な演奏、引き締まった指揮を思い出し、そのプログラム掲載内容とのギャップ(もしくは見事な合致)をしみじみ楽しんだ。