ユジャ・ワン ピアノリサイタル|谷口昭弘
2016年9月4日 神奈川県立音楽堂
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 青柳聡/写真提供:神奈川県立音楽堂
<曲目>
シューマン:《クライスレリアーナ》
カプースチン:変奏曲 op. 41
(休憩)
ベートーヴェン:ソナタ第29番《ハンマークラヴィーア》
(アンコール)
プロコフィエフ:トッカータ op. 11
ラフマニノフ:哀歌 op. 3-1
カプースチン:トッカティーナ
ショパン:バラード第1番 op. 23
モーツァルト:トルコ行進曲(ヴォロドス/ファジル・サイ編曲)
当日渡されたプログラムにはスクリャービンの第4ソナタ、ショパンの即興曲第2・第3番、グラナドスの《ゴイェスカス》からの2曲が前半の演目とされていた。ところがアナウンスがあり、シューマンの《クライスレリアーナ》1曲が前半に演奏されると伝えられた。プログラム冊子には「出演者の強い意向により、曲目が一部変更となる場合がございます」との紙が添えられており、若干の変更は想定していたものの、前半にやってきたのが、当初予定されていたのとは全く違う作風で、しかも《クライスレリアーナ》1曲のみと発表されたこともあってか、会場は一瞬どよめいた(カプースチンは何の予告もなく演奏されたので、最初はアンコールかと思った)。
「シェフの気まぐれコース・ディナーか?」と思った今回の公演だが、ユジャ・ワンは何もなかったかのようにあでやかに登場し、シューマンの《クライスレリアーナ》第1曲で、低声部を湧き上がらせながら、聴き手をぐっと引き込んでいく。第2曲では、攻めのリズムの中で旋律をたっぷり聴かせたかと思うと、伴奏をずっと後景に置きながら、左右の声部の立体的対話を行う場面もあった。その後も、部分部分による多彩な楽想の見事な弾き分けをユジャ・ワンは行い、第3曲では、つぶやくような冒頭から始め、複雑に絡み合う声部を丁寧に弾いたかと思うと、最後は大胆なカタルシスに聴き手を導く。多くを語らず、しかしニュアンスを大切にしたコラールを聴かせた第4曲に続き、第5曲は直感的なほとばしり、ギターを爪弾くような一節、そしてシンフォニックな盛り上がりを経て第6曲につなげた。激しい第7曲においても途中の対位法的なフレーズには耳を傾けていたし、後半はまるで違う曲のようにやさしい表情を見せる。そして最終曲ではソプラノ声部の戯れ、雄大なスケールの中間部と、どの曲も、楽譜を活力ある音にするための引き出しを多くもっているのだということを実感させた。
大きな拍手の中、iPod を持って現れたユジャ・ワンは、画面上の楽譜を指で器用にめくりながら、ジャズの香り高い、装飾音も鮮やかなカプースチンの変奏曲を、控えめのペダルで楽しく聴かせた。歯車のようにがっちりと合わさった終盤のリズムも見事。
ベートーヴェンの《ハンマークラヴィーア》は、どっしりとしたファンファーレから始まり、強拍・弱拍を明確にした規則的な拍節感を崩さずに進めていく。
テンポが揺れ動くシューマンとはまるで違う世界だ。きらめくような音色で提示部を終え、展開部では4声フガートの構造美とともに転調のドラマが、気持ち良い鳴りで形作られた。
あまりオーケストラ的な効果を強調せず、聴かせどころをきっちり絞ったスケルツォに続き、第3楽章は、深い呼吸のコラールから、しだいにくっきりとソプラノが聴かれ、孤独感を増していく。第2楽章とは対照的に、この楽章では中低音域が弦楽器のような厚い和音を聴かせ、その上に旋律を奏でるピアノが、まるで協奏曲の緩徐楽章のよう。深まりつつある音楽は、やがて沈黙の中に触れ合っていく。しかし最後までもやもやとした霧になることはなかった。
前楽章の沈黙との探りあいに続き、音がこぼれる序奏とともに第4楽章が始まる。いつ主部に入るのかという心理的な駆け引きの面白さが聴き手を惹きつけた。生演奏ならではの、そんな醍醐味をユジャ・ワンは楽しみ、フーガへと突入する。ずしりとしたピアノらしい低音を響かせながら、各声部をクリアに提示し、エピソード部の面白さに彼女は注目させていた。フーガの後のフィナーレは、混沌とした中で聴くべきフレーズを果敢に聴かせようとする懸命さに聴き手も参加者として加わり、興奮のままに曲を閉じた。
機械的な反復でエネルギッシュに進めるプロコフィエフ、旋律が時折デュエットになるラフマニノフの美しい小品、ブルース系和声にドラムを思わせる左手が活躍するカプースチン、透明度の高いショパン、圧倒的なヴィルトゥオーゾとしての凄みで感覚が麻痺しそうなヴォロドス/ファジル・サイ編のモーツァルトと、てんこ盛りのアンコールは、これだけで、コンサートの第3部のような存在感を持っていた。
最初から最後まで、ピアノを弾く楽しさ、聴く醍醐味を味わったコンサートだった。