《マハゴニー市の興亡》|大田美佐子
2016年9月17日、18日(市民席) KAAT 神奈川芸術劇場
Reviewed by 大田美佐子(Misako Ohta)
Photos by 二石友希 /写真提供:KAAT 神奈川芸術劇場
劇/音楽 ベルトルト・ブレヒト/ クルト・ヴァイル
演出・上演台本・訳詞 白井晃
翻訳 酒寄進一
音楽監督 スガダイロー
振り付け Ruu
舞台美術 二村周作
照明 斉藤茂男
<演奏>
竹内直(サックス・バスクラ)/ ギデオン・デュークス(チューバ・ダブルベース)/石川宏之(トランペット)/石若駿(ドラムス)/ スガダイロー(ピアノ)
ジム・マホニー 山本耕史
ジェニー・スミス マルシア
レオカディア・ベグビック 中尾ミエ
三位一体のモーセ 上条恒彦
社長のファッティ 古谷一行
ビル 細見大輔
ジョー 櫻井章喜
ジャック 辰巳智秋
トビー・ヒギンズ 薬丸翔
未体験ゾーンのクールなジャズ・ミュージカルとそのパラドクス
KAATの芸術監督白井晃の演出で、ブレヒトとヴァイルの《マハゴニー市の興亡》が上演された。音楽はジャズミュージシャンとして劇音楽でも奇才の誉れ高いスガダイロー。楽器は五人の気鋭のジャズミュージシャンによる持ち替えで、サックス、バスクラリネット、チューバ、ダブルベース、トランペット、ドラムスにピアノ。かつて三文オペラでもタッグを組んだ白井と酒寄進一による日本語での上演。ひと言で言うならば、今回の試みは、この作品の上演史上、音楽的には未体験ゾーンの「マハゴニー」であったといえるかもしれない。名づけて、華麗なジャズ・ミュージカルとしてのマハゴニーである。
都市が主役のこの作品に相応しい、前列12列まで舞台を拡げた解放感のある舞台空間。舞台中央に置かれたピンクのシボレーとショットバー。スガダイローが仕掛けたサウンドは、美しい照明やバックに映し出された摩天楼の夜景ととともに、欲望が渦巻く都会の暴力性と暗闇、眩い夢と幻想のコントラストを圧倒的な熱量で鮮やかに伝えた。
無論、この上演では、原作でヴァイルとブレヒトが目標としていた「新しいオペラを作る実験」が問われたわけではない。日本におけるオペラが舶来の存在である以上、またこの上演がオペラハウスで行われなかったために、マハゴニーの終着点としてオペラを設定することにリアリティーはないのかもしれない。ここでは強烈なインパクトをもつヴァイル節と呼ばれる耳馴染みのある旋律の骨組みだけが残される。その結果、台風の到来を表すフーガなど、形式やハーモニーに仕掛けられたアイロニーや、言葉と音楽との間で細かく積み上げられたヴァイルの「音楽の身ぶり」や「異化効果」などの仕掛けは、スガダイローの「マハゴニー・サウンド」の中に沈殿して影を潜めた。
しかし、独特の節回しと解釈を持つ彼の音楽のエネルギーは、とても魅力的だ。「飽食」の場面で演奏される素朴で牧歌的なツィターの音が、都会的で舌ったらずなトイピアノで演奏されるなどの読み替えは秀逸。処刑前の「マハゴニーの神様」の場面で、ヴァイルがつけた死のワルツや合唱が台詞に置き換わったが、それも宗教的なエッセンスを排し、理解のスピードを重視した選択であったのかもしれない。いずれにしても、ヴァイルの音楽から得たエッセンスを使って、アーバンシティー「マハゴニー」を描き出したスガダイローの音楽は、麻薬性のあるヴァイルの音楽へのオマージュとして力強く、CDが欲しくなってしまうほど魅力的で納得させられた。
鍛え抜かれた女性ダンサーによるキレ味鋭い踊りに、パンチのある音楽。これがショーとして素晴らしいエンターテイメントであることに異論はないだろう。通常はジムの裁判にしか出てこない影の薄いトビー・ヒギンズが、無差別殺人の狂気を秘めた若者として存在感を放ったのもいい。それに、ベテランの役者たちの演技は見事だった。伸びる力強い声で、一挙手一投足に抜かりの無いアウラを放つ「中尾ミエのベグビック」、上条恒彦の三位一体のモーセや古谷一行のファッティも凄みがあって素晴らしかった。スタイル抜群で、魔性の女の魅力をふりまくマルシアのジェニー、山本耕史のジムもさすがの歌唱力で、評判の芸達者ぶりを見せつけた。
全国的に注目され勢いのある旬の劇場、演出家、音楽家、役者だからこそ実現出来る旬の舞台の迫力を堪能しつつ、それでも率直に言えば、腑に落ちないいくつかの点が残った。観る者の価値観に揺さぶりをかけることで、ヴァイルとブレヒトの音楽劇が「社会派」と呼ばれてきたとしたら、この舞台で最終的に「ジムの死」はどう描かれ、どう問われたのだろうか。プロローグで白い防護マスクを被り、大災害社会を象徴するように登場した男たちの問いかけは、どこに消えてしまったのか。あっけなく「死刑」にされたジムの棺を囲みつつ、大音量で演奏される葬送行進曲という原作に込められたラストのラジカルさは、欲望の渦巻く煌びやかな都会では感じることができなかった。思わずうっとりしてしまうような出演者に、魅力的な舞台だからこそ、欲を言えばプロローグの問いかけに呼応して聴衆に銃口を向けてくるような、ぐさっと刺さるエンディングがあると期待してしまったのだが・・。そしてもうひとつ欲をいえば、市民席と舞台との境界線について。作り込まれたエンターテイメントのなかで、時間のあそびを作るのは至難の技と知りつつ、舞台と観客の境界線を揺さぶる仕掛けがないものだろうか・・。
とはいえ、ゴージャスな舞台にカタルシスを得た観客の反応はとても良く、リピーターも大勢いたと聞く。今後、著作権フリー時代の新しいマハゴニーの実験がどのように展開していくのか、オペラという枠組みを外されたマハゴニー市の物語が、エンターテイメントとしてひとつの可能性を示唆した歴史的な上演だった。