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Books | バイエルの謎—日本文化になったピアノ教則本 | 大河内文恵 

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安田寛
新潮文庫
20163月出版
550円(税別)

text by 大河内文恵 (Fumie Okouchi)

本書は、ムジカノーヴァ2006年9月号に掲載された安田氏の「『バイエル』はなぜ日本に来たか?」という 記事をきっかけに、2012年5月に音楽之友社から刊行された著作が、今年3月にさらに文庫化されたものである。この種の書籍の文庫化は非常に稀であることを考えれば、文庫化される前から注目を集めていたことは明らかである。

それでも敢えて書評に取り上げたのは、この本が、『バイエルの謎』というタイトルからうける、一見キャッチーで薄っぺらな印象を根底から覆す、数年にわたる丹念な調査と鋭い分析・考察に基づく研究成果を反映したものであり、それにもかかわらず、著者が「文庫版あとがき」で述べているように、「研究紀行文」の体裁を取っていて誰にでも読みやすいからである。

安易な謎解き本でないことは、本書の構成からもわかる。13章から成る本書はさらに第1~第4の「封印」に大別され、それぞれの封印には「ヨハネの黙示録」から引用されたエピグラフが掲げられている。第1の封印では、日本人にとってバイエルとは何かという問題を、バイエル教則本が日本に持ち込まれた経緯に遡って解き明かしていく。従来の、「明治30年にお雇い外国人のメーソンが音楽取調掛で使うために持ち込んだ」という定説を根本から洗い直し、最終的にはボストンの音楽院に飛び、ヴァイオリンを得意としピアノには疎かったメーソンに助言したのが、音楽院教授のエメリーであることを突き止める。そこから当時の目録などを使った、バイエル教則本の原著の初版の探索が始まり、第2の封印に繋がる。まさに謎が謎を呼び、何もわかっていなかった「バイエル」の世界が思いもかけなかった広がりを見せ始める。

バイエルとは誰なのか?そもそも実在した人物なのか?現在、さまざまな形で存在している『バイエル教則本』の元の形はどういうものなのか?それはどうやったらわかるのか?『バイエル教則本』は何のために書かれたのか?『バイエル教則本』初版の不思議な構成は何なのか?バイエルの人生と『バイエル教則本』との関係は?バイエルはなぜ100曲ではなく106曲なのか?謎は次々現われる。まるでモンスターを1匹倒しても、すぐまた次のモンスターが現われるゲームをやっているかのように。

その謎を解くために、著者はボストン、ニューヨーク、ヴィ―ン、マインツ、クヴェアフルト、ハレ、イェール大学、ケレダと欧米各地を飛び回って調査を進めていく。もちろん、 いつもうまくいくとは限らない。むしろ、予定した通りに調査が進まないことのほうが多い。そんなとき、がっかりしつつも、何か他に手掛かりはないかと手を尽くす著者の様子に、読んでいるこちらも思わず、本を持つ手に力が入る。

第3の封印では、日本におけるバイエル受容史に焦点が当てられる。ここからは音楽教育学者としての安田氏の本領が発揮される。一般には絶対音感教育の創始者として知られる園田清秀が、日本におけるバイエル改編の第1人者であることを突き止め、日本におけるバイエル・ブームの隆盛を暴いていくくだりは圧巻であるが、話はそこで終わらない。原著と日本版とで上下巻の区切りが異なることから、原著の成立史の解明へと切り込んでいく。

そして第4の封印では、ついにバイエルという人物の存在問題に新たな展開が訪れる。これまでのいくつもの挫折や、解決しなかった疑問として張り巡らされていた伏線が、ここで一気に回収される爽快さは、まるで良質のドラマを見ているようである。

私事になるが、ピアノを教える仕事をしていたことのある評者は、バイエルに逆風が吹き荒れていた時期もバイエル派だった。その頃、感じていたのは、いかにもドイツ的な旋律線と、左手に和音が出てくる前の対位法的な書法に対する 複雑な思いだった。初めてピアノを習う子どもには、ピアノを弾くのは初めてでも、家庭内にすでに音楽があり、それなりに豊富な音楽経験を持つ子どもと、そういったものをまったく持たない子どもとがいる。後者にとってバイエルは途轍もなく難しい教材となる。これがどこから来るのか、この本を読んで深く納得した。そして、バイエルの源流が18世紀のザクセンにあることを知り、まさにそこをフィールドとして研究している自分が読むべき本であったことを知った。 なぜ私は今まで読まなかったのだろう?

全体に非常に読みやすく、注意深く書かれているが、時折、急に時系列が飛ぶ箇所があり、p.87やp.97の小見出しの後あたりには、ひとこと予告があれば、さらに読みやすさが増したように思う。もちろん、そこで「あれ?」と思わせる著者の作戦なのかもしれないが。
あと細かいことだが、New York Public Libraryが「ニューヨーク公立図書館」と訳されているが、ここはれっきとした私立図書館であるので、ニューヨーク公共図書館と訳すのが標準的であることを指摘しておく。さらに、p.119の2行目に出てくる『ピアノ教則本』は、2000年に『テュルククラヴィーア教本』というタイトルで邦訳されているので、注にその情報があれば、なお親切だったと思う。また、冒頭についているドイツ連邦共和国の地図が、現在の州区分になっているが、「バイエル」が出版された当時の地図であったら、さらに理解が深まったように思われる。

なお、冒頭でふれた音楽之友社から刊行されたバージョンは、基本的にこの文庫本バージョンと同じだが、文庫本では(3か所)本文中に挿入されている写真類が、最後にまとめて掲載されており、文庫本よりも少し大きくはっきりしている。とくに洗礼簿や戸籍はこちらのほうが断然見やすい。

2016年4月には、本書の続編ともいえる『「バイエル」原典探訪:知られざる自筆譜・初版譜の諸相』が、本書でもお馴染みの多田氏や小野氏によって出版されている。バイエルに興味を持ったあなた、バイエルってこういうところが使いにくいのよねと常々思っていたあなた、ぜひどうぞ。