Pick Up(16/08/15)|中村紘子氏の訃報に寄せて|丘山万里子

中村紘子氏の訃報に寄せて

text by 丘山万里子(Mariko Okayama)
photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
 2009年9月16日:デビュー50周年記念パーティー@帝国ホテル
 2009年9月19日:デビュー50周年記念リサイタル@サントリーホール

2015年、がんを公表、闘病しつつ演奏を続けていた中村紘子が亡くなった。享年72歳。
華のあるピアニストで、文才にも長け、『チャイコフスキー・コンクール〜ピアニストが聴く現代』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞など、才媛ぶりを発揮した。
桐朋の「子供のための音楽教室」第1期生で、同期に小澤征爾、堤剛らスターが並ぶ。戦後の廃墟に、いち早く音楽の早期教育の先鞭をつけた齋藤秀雄、吉田秀和らの夢と希望を体現した輝かしい成功第一世代である。
早くから天才少女と騒がれ、1959年日本音楽コンクールに15歳で優勝、翌年N響初の世界ツァーにソリストとして同行している。1961年、初独奏会の評で大木正興(中村がのち、所属したジャパン・アーツのご意見番のような存在だった)は「非凡な素質」「ふんいきの盛り上げ方のうちに素晴らしい感受性がひらめいている」としつつ、「まず自分の音をしっかりつかむこと」「ピアノという機械の音を鳴らすのでなく、幼くともよいからじぶんをひとつひとつの音に音化する」ことが必要と指摘、「優秀な才能に対する適切な指導の重要さをこれほど痛切(注:原文は「適切」とあるが誤字と思う/『大木正興 音楽会批評集<上>』音楽之友社)に感じさせた会はなかった。」と結んでいる。
その後、中村はジュリアード音楽院に留学、1965年ショパン国際コンクール第4位、最年少者賞を獲得、以来、日本のトップ・ピアニストとして君臨し続けた。
「天才も二十歳過ぎればただの人」とは中村自身もよく引き合いに出したが、彼女が「ただの人」にはならなかったのは、並々ならぬ努力と適切な周囲があったからだろう。

私は中村の熱心な聴き手ではなかったが、日本の現代曲にも果敢に挑む姿勢には感心していた。最後に聴いたのは2009年、三善晃『ピアノ協奏曲』で、デビュー50周年記念に3つの協奏曲(モーツァルト、ラフマニノフ)を弾くというコンサート(東京文化会館)。演奏後、車椅子の三善が会場後方で立ち上がり、聴衆の歓呼に応えていたが、それが三善の公衆の面前での最後の姿だった。
中村はずいぶん勉強したようだが、持ち前の「盛り上げ方」(それは大木の言うように彼女のオーラでもあるわけだが)が作品の持ち味をいささか削いだ感は否めない。が、その意欲と熱意には敬意を表した。

中村は戦後の高度成長期の申し子であったと思う。「追いつき、追い越せ」から、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」に至る日本の猛烈な上昇志向の中で、ピアノ界を牽引し続けた。東西冷戦時代のアーティスト世界、バブルとその崩壊、大量消費社会における音楽の商品化、アジアの台頭など、時代の動向と自分の位置をよく見ていた。
齋藤たちの描いた夢を背負い、実現し、次へ渡すことへの自覚。それが1991年から開催の浜松国際ピアノコンクールへの情熱に表れている。

常に、人々の「夢」であり続けることを自分に課したピアニスト、中村紘子。
その「夢」から、次の新たな「夢」が羽ばたいてゆくことを願う。

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