日本フィルハーモニー交響楽団 第682回 東京定期演奏会|藤原聡
日本フィルハーモニー交響楽団 第682回 東京定期演奏会
〈創立60周年記念〉ラザレフが刻むロシアの魂SeasonⅢ ショスタコーヴィチ6
2016年7月8日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 山口敦/写真提供:日本フィルハーモニー交響楽団
<演奏>
指揮:アレクサンドル・ラザレフ
コンサートマスター:扇谷 泰朋
ソロ・チェロ:辻本 玲
<曲目>
グラズノフ:バレエ音楽『四季』作品67
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番 イ長調 作品141
この9月からは桂冠指揮者に就任、つまりこれが日本フィルを指揮する最後の公演という訳ではないのだから必要以上に悲しむこともないにせよ、しかし近年の同フィルの演奏水準をさらにワンランク上昇させたラザレフの8年間に及ぶ首席指揮者としての最終公演である今回、サントリーホールに集まった聴衆の心のうちには間違いなくある種の感慨が宿っていたと思う。今回のプログラムは継続中のショスタコーヴィチ・シリーズである交響曲第15番、そして11月から開始される新たなグラズノフ・シリーズへのいわば導入とも言いうる同作曲家の『四季』。
まずは『四季』であるが、これが抜群の名演奏だった。さほど多くはないにせよ、幾つかは聴いたことのある録音―スヴェトラーノフやアンセルメ、作曲家の自演盤―をも凌駕し、恐らくこれ以上の演奏に今後接することはなかなか出来まい、と思われるほどのものであった(昨年11月にフェドセーエフがN響を指揮した同曲の「秋」は未聴)。まず、オケのふくよかなソノリティと音色の豊穣さ(ことに弦楽器群)に圧倒される。あるいは、管楽器群に代表される各楽器の合奏の緊密さと自発性。単に縦の線が合っている、という次元ではなく、音楽的な呼吸感の類稀な一体化。いつもの日本フィル以上に自発性があり、だから音楽は隅々まで躍動する。正直に書けば、これまで当曲を聴いて来なかった訳でもない筆者だが、この演奏でグラズノフの『四季』に初めて開眼したと言ってよい。楽曲終結部で客席に完全に向き直ってのドヤ顔パフォーマンスがいつも以上に冴え渡る。ラザレフとしても会心の出来か。1曲目からすごいものを聴かせてもらった。
そして後半はショスタコーヴィチ。これもまたすさまじい。寂寥感で聴かせるタイプの演奏ではなく、いわばリアリスティックにスコアの細部を掘り下げる解釈であるのはこのラザレフの常であるが、ここではその力量がいつも以上に炸裂していたと思う。例えば第1楽章や第2楽章のクライマックスでの鋭角的な表現。第4楽章終結部のあのただでさえ印象的な打楽器群の合奏において聴かせるメリハリを強調した表現主義的な独特の空気感。何と言うべきか、この楽曲のあらゆる音符をゼロベースで見つめ直し、そこから改めて全ての細部を組み立て直して行った結果、これまでの演奏とは非常に違った印象を持った大伽藍が立ち上がった、とでも形容すべき演奏なのだ。もっと静謐な演奏を好む向きもおられるだろうが、これはある意味で今までの当曲のイメージを覆すような演奏だったと言ってよいのではないか。先述の第4楽章終結部。ここでラザレフは全ての音が虚空に溶け込んで消滅した後にもしばらくは小さく拍子を取り続ける。お陰で、ホール中の全聴衆はこの不可思議な楽曲の、まるでブラックホールに吸い込まれていくかのような異常な「特異点」とその余韻を、その静寂の中で十分に味わい尽くすことが出来たのだった。
ところで、ラザレフの後任として新たに日本フィルの首席指揮者の任に就いたのはピエタリ・インキネンである。一見ラザレフとは正反対の芸風の持ち主にも思えるが、これには全く興味が尽きない。ラザレフの下で1つの「頂点」を極めた日本フィル。今後の展開がさらに興味津々である。