Books|ウィーン・フィルとともに45年間―名コンサートマスター、キュッヒルの音楽手帳|藤原聡

書評ウィーン・フィルとともに45年間―名コンサートマスター、キュッヒルの音楽手帳
ライナー・キュッヒル

取材・文:野村三郎
音楽之友社
1,500円+税

text by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)

個人的な体験を少し。あれは確か2011年の7月だったか。スダーン指揮による東京交響楽団の定期演奏会にライナー・キュッヒルが登場した。1曲はモーツァルトの協奏交響曲のソリストとして、1曲はシェーンベルクの『浄夜』のコンサートマスターとして(同じ夜のコンサートである)。この際の『浄夜』は全く凄まじい演奏で、普段の東響のレヴェルを超越したかのような、整然とした中にも恐ろしい程のテンションとパッションを共存させた稀に見る名演だった。最近では東京・春・音楽祭での『ニーベルングの指環』でN響にゲストコンサートマスターとして登場(来年の『神々の黄昏』にも登場するだろう)、N響とは思えないオペラティックな(失礼)演奏を成し遂げているのは、指揮のヤノフスキの手腕は無論あるにせよ、キュッヒルの絶大な存在が大きく関与しているのは疑う余地がない。なぜウィーン・フィルのコンマスであるキュッヒルの話で客演コンサートマスターの話題から入るのか。理由は簡単である。キュッヒルのコンサートマスターとしての類稀なる手腕は、「他流試合」の方がより明確に理解できるからだ(ちなみにソリストとしては、相当前の話で恐縮であるが1993年3月、フェドセーエフ&都響と演奏したベルクの協奏曲が忘れ難い。このコンサートは同胞ヘッツェルが出演予定だったのだが、前年1992年に不慮の事故で急死したための代役であった。そういう状況が名演を呼び起こしたのはあると思う)。

本書は、2016年8月で45年間コンサートマスターを務めたウィーン・フィルを退任するキュッヒルのいわば退任記念本である(内容は「音楽の友」2008年4月~2010年3月号での連載記事、2010年7月号別冊付録記事、2011年1月号特集記事抜粋を一部編集、修正したもの)。その生い立ち、ヴァイオリンを始めたきっかけ(11歳と実に遅い!)、ウィーン・フィルのコンサートマスターに就任した経緯、真知子夫人との馴れ初め、オーケストラによる真の音楽作りについてなど、これ1冊でキュッヒルその人およびその哲学が大まかに「分かってしまう」内容となっているのだが(付録的なキュッヒルによるウィーンの劇場とザルツブルク案内は実に楽しいし、冒頭グラビアページには名指揮者たちとのステージ写真が。単行本化に際して新たに加わった写真もある)、筆者が1番興味を惹かれたのはキュッヒルの厳格さとある種の「自負」―自身がかつての古き良きウィーン・フィルを代表する最後の世代である、との矜持(本人が本書で明言している訳ではないが)―、責任感とでも言うべきものだ。こんな衝撃的な発言がある。少し長いが、引こう。

「…問題は初見能力だけではありません。例えばヴァイオリン奏者は自分のパートがオーボエとどういう関係があるのか興味を持たねばなりません。他の楽器がどのように弾いているか考えていないのです。オーケストラでは一緒になって聴き、他のパートにも耳を傾けなければいけません。自分のパートのことだけ考えていてはいけないのです。自分のパートをオーケストラの中でどのように合わせていくべきか考えねばなりません。他のパートと合わせるには自分は何をするべきか考えるべきですね。そういうことに若い団員は興味を持っていません。この数年間で私の後ろにいる団員たちがそうなってしまいました。」

あのウィーン・フィルにしてからがこういう状況だ、とキュッヒル。もちろん大変高いレヴェルでの話ではあろう。しかし、ウィーン・フィルは特別でなくてはならない。それは今でも同じだろうし、このオーケストラが「上手な普通のいちオーケストラ」になってはならないと思う。キュッヒルは本書の他の箇所では「…この民主主義の世の中でどうして指揮者だけが独裁者のように振る舞っていいのでしょうか?」、あるいは聞き手の野村三郎の「どこがコンサートマスターと他のトゥッティの団員と違うのですか?」との問いに「いや、どこも違わない」と答えており、いわば時代の精神や要請からこういう発言には自ずとなるであろうが、しかしオーケストラの本質とは本来反・民主主義的なものであることは論を待たないわけで、キュッヒルはそのようなことは当たり前だが百も承知だろう。このようなジレンマはオーケストラを考える上での本質的な部分であろうが…。今の時代に合致したオーケストラのあり方はもちろん存在するが、結果として出て来る音楽が良いのか悪いのか、が問題であるのは当然のことだ。しかし、その「良い・悪い」も時代によって変容するだろう。複雑な要素が絡み合ってある演奏は生まれるし、それに聴き手は感動したりしなかったり、高く評価したりしなかったりする…。

それにしても、本書でのキュッヒルのキッパリとした断定、厳しさに満ちた発言を読むにつけ、このような「全人的な」存在のコンサートマスターは、ウィーン・フィルではキュッヒルがその最後の存在となる、と思わざるを得ない(ところで、音楽に関わっていない時のキュッヒルはお茶目で面白い、との記述がある。コンサートマスターとしてステージに立っている時にはほとんど笑顔すら見せない印象だけれど、本書掲載の写真にはリラックスして楽しそうなものが多数掲載されている。そういうある種の「ゲミュートリッヒ」なアティテュードは、ご本人のパーソナリティの均衡を保つための内的必然から自ずと表れ出るものだと思う、深読みかも知れぬが。ちなみに「ゲミュートリッヒカイト」〈快適さ〉とはオーストリア的な感覚だという。ちょうどウィーン・フィルにもあるような)。