パリ・東京雑感|人権の闘いの最前線としての同性愛|松浦茂長
人権の闘いの最前線としての同性愛 フロリダ銃乱射の憎悪するもの
text by 松浦茂長( Shigenaga Matsuura)
フロリダ州オーランドの同性愛者ナイトクラブで49人が射殺されたニュースを聞いて、1991年モスクワのクーデタを思い出した。支局から衛星中継でレポートしている間、カメラは窓から路上の光景を映していたが、そのカメラのフレームに戦車が入ってきたとき、カメラマンの目からぼろぼろ涙がこぼれた。そして、アフガニスタンの戦場の修羅場を見てきた男が、肝心な時に倒れて数日間役に立たなくなってしまったのだ。ゴルバチョフのおかげで、隣人の密告とKGB秘密警察の影におびえずに生きられる国になってゆくのが、彼にはどんなに嬉しかったか、そのつかの間の夢が戦車に押しつぶされるのを見るのがどれほどの打撃だったか、ソ連体制を生きた者にしか分からない。 同性愛者たちは犯罪者のように非難され蔑まれ、暴力を加えられ、二級市民の地位に貶められてきた。それがここ十数年、欧米各国で同性の結婚が許されるまでに激変した。こうしてやっと暴力におびえることなく同性の愛を育める時が来たと信じた刹那、同性愛であるがゆえに49人が殺されたのである。わがカメラマンが戦車を見た時と似た絶望的衝撃を、同性愛者たちは感じたのではないだろうか。<法律が変わり、マスコミの報道姿勢が変わっても、人々の心の奥には私たちへの激しい憎悪が隠れている。表向き同性愛が市民権を得れば得るほど、ヘイト・クライムは残虐さを増し、私たちはおびえ続けなければならない…>。
『ミルク』という映画を思い出す。「私はゲイ」と公言して初めて選挙に勝った男、1977年サンフランシスコ市議に選ばれたハーヴェイ・ミルクの物語である。ミルクの台詞に「同性愛の闘いは私たちのためだけではない、人権のための闘いだ」というのがあった。同性愛は気持ち悪いと生理的嫌悪を感じる人、同性愛は罪だと教えられてきた人…さまざまな自分の中の偏見を乗り越え、同じ人間として同性愛者に向き合うにはかなりの努力が必要かもしれない。しかし差別をなくすための努力はその人を高め、社会を変えてくれる。同性愛者の痛みを感じることを通じて、他者の痛みに敏感な社会を作ることができる。ミルクはそう言いたかったのだ。 ミルクは市議当選の翌年、ゲイを憎む同僚に射殺されるが、その前に<殉教>を予感して、死後に再生してもらうための録音テープを残していた。その中の有名な台詞「もし一発の銃弾が私の脳に達するようなことがあれば、その銃弾はすべてのクローゼットの扉を破壊するだろう」というのは、自分の死がきっかけになって多くの同性愛者がカミングアウトすることを期待しているのだ。カリフォルニア州で、同性愛の教師は首にするという条例が成立しそうになったとき、ミルクは反対運動の仲間たちに、「いますぐ両親や友人に“私はゲイ”と告げてくれ」と懇願する。身の回りの頼りになる人、愛する人がゲイだったと知れば、彼らが同性愛に対して抱いていた固定観念がどんなに間違っていたか気づく違いない。これが差別をなくすために最良の道だというのだ。差別反対の活動家たちにとってさえ、親に自分の性を告白するのは身を切られる思いだったのである。
それから20年、僕が赴任したころのパリではミルクの願いがかない、少なくとも知的階層ではあらかたカミングアウトがすんでいたのではなかろうか。人類学者を食事に誘うと見上げるほど背の高いセネガル人をパートナーとして連れて来るし、デザイナーの家に招かれると、ハンサムな建築家がエプロンをかけて台所で働いていたし、もしかしたら才能と感性豊かな男はみんなゲイなのではと思えるほどだった。 画商のジャン・フルニエさんもその一人だ。夕食に招かれ、画廊を訪ねると、「<友人>が車で迎えに来ます」と言う。<友人>の運転でレストランに着くやいなや、<友人>は大きな声でオペラについておしゃべりを始めた。フルニエさんの話題は、「画家アンタイは神が彼の頭脳に語りかけるよりもっと直接的に彼の手に働きかけていることに気づき、絞り染めに似た創作方法をあみだした」と核心にさしかかっているのに<友人>の饒舌はお構いなしだ。この無神経な男は何者か?彼の職業を尋ねたところ「庭で野菜を作ったり、ジャンの健康を守ることが私の仕事だよ」と変なことを言う。しばらく考えて、やっと2人の関係に気づいた。そう思って見比べると絶妙の組み合わせかもしれない。フルニエさんは、うつむき加減で、ぎりぎりの真実だけをささやくように話す人。繊細で内向的なフルニエさんにとって<友人>の陽気なおしゃべりは、メランコリーに落ち込まないための抗鬱剤の役割を果たしているのかもしれない。<友人>はフルニエさんの身体のために安全な野菜をつくり、彼が精神のバランスを失わないよう陽気にふるまい、最良の条件で仕事できるよう尽くしている。献身が彼の人生なのだ。フルニエさんが亡くなったとき、『ルモンド』紙に載った故人の業績を称える記事を読み、<友人>の<内助の功>を思った。
ドイツの作曲家ハンス・ウェルナー・ヘンツェさんも献身的な同性のパートナーと一緒だった。お坊さんみたいにつるつる頭のヘンツェさんはテレビを見てはしゃいだり、カーラジオの音楽に合わせて指揮したり、子供のように無邪気に思ったままを話す人だった。パートナーのファウストさんは20歳ほど年下なのにぐっと落ち着いて、ヘンツェさんが羽目をはずさないように見守るといった感じ。その日は2人のお供をしてロンドン郊外の城まで行ったのだが、途中ヘンツェさんはしきりと車から空を見上げ、月の出るのを待ちわびていた。やっと月が見えるとほっとしたように「やはり新月だった。月が満ちてゆく期間はインスピレーションがわくから作曲できる。月が欠けてゆく期間は作曲はやめてオーケストレーションをする」と教えてくれた。するとファウストさんが「月の働きに気づかせたのは私だよ。私は農民の子だから、月の満ち欠けに合わせて種を蒔くのを見ていたのですよ。月が満ちるとき野菜の葉がぐんぐん育ちます」と創作の秘密の種明かしをした。 翌日、彼は僕と2人になったとき「ハンスは私のことが怖いのだ。彼は金を数えることも電話をかけることもできない。私なしには生きていけないのを良く知っているからだ」と得意げに語ったが、「怖い」という言葉が熱っぽいおのろけに聞こえた。ヘンツェほどの大物が相手では、秘書役を果たすだけで手一杯になりそうなものなのに、ファウストさんはローマの家の菜園・庭園の管理とロンドンの別邸の管理をはじめ、ヘンツェさんの日常の世話を完璧にこなしていた。
晩餐会の帰りの車の中で、ヘンツェさんは同じテーブルで食事したアメリカの抽象画家、エルズワース・ケリーをこきおろしてこう言った。「自分の仕事のことしか話さない退屈な奴だったよ。同伴した男のことを何と言ったと思う?“彼とは10年も一緒です”とさ!私たちは40年一緒に暮らしているよ」。でもファウストさんの歳は、しなやかな身のこなしから推測するに50代前半ではなかろうか。「40年」というのは計算が合わない。「それじゃ、いくつのとき知り合ったのです?」と聞くと、その質問を待ってましたとばかり嬉しそうに「16歳」と答えた。ファウストさんにとってはヘンツェさんに尽くすことが人生のすべてなのだが、ヘンツェさんの方も、彼との関係を、作曲家としての名声より誇らしいことと考えているようだった。 ところで、もしこのカップルが男と女だったらどうだろう。16歳の乙女が天才音楽家に身を捧げ、それ以来ただ彼の生活環境を整えるためにだけ生きてきたとする。恐らく彼女は自己実現を放棄した自立できない女だと悩むのではないか。<内助の功>などという言葉を女性に向かって使ったら侮辱になる。ところが、男と男の関係だと自己犠牲・献身が自慢の種になるのだから、<内助の功>はまだ死語ではないらしい。
最後にまたオーランド事件に戻って、仏大統領の失言をご紹介したい。事件のニュースが伝えられるとすぐ、オランド大統領は「同性愛を敵視する身の毛のよだつ殺戮は、各人が性指向を選ぶ自由を直撃するものだ」と言った。何度も自由という単語を使い、LGBTの人々への連帯を示したつもりだったのだろうが、たちまちこのメッセージはLGBT側から袋叩きにあってしまった。ブログには「オーランドで無残に殺されたのは彼らがLGBTを<選んだ>からなんかじゃない。LGBT<だった>からだ。」とか「あなたが性を選べるというのなら、私は3か月試してみたかった」などと書き込まれている。オーランドでは息子がゲイのナイトクラブで死んだために初めて息子の性指向を知った親が多かったというし、LGBTは自分の性を隠すか、偽るか、カミングアウトするかの苦しい選択を迫られるのであって、<性指向を選ぶ自由>などあるはずがない。LGBTの痛みへの鈍感さをさらけ出す失言だった。