クラウス・フロリアン・フォークト|佐伯ふみ
Music Program TOKYO
プラチナ・シリーズ第1回
クラウス・フロリアン・フォークト~スターテノールが歌う「水車屋の娘」
2016年6月6日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 佐伯ふみ(Fumi Saeki)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
クラウス・フロリアン・フォークト(テノール)
ヨブスト・シュナイデラート(ピアノ)
<曲目>
シューベルト:歌曲集「美しき水車屋の娘」
新国立劇場『ローエングリン』公演でタイトルロールを歌い、絶賛を浴びたばかりのフォークトが上野の小ホールに登場。2013年にこの会場で披露した、シューベルト「水車屋の娘」に再び挑戦である。 リートの公演はふだん、しっとりと大人の雰囲気を漂わせているものだが、この日は勝手が違った。開演前に早々と席が埋まった客席は、なにやら異様な熱気。女性客の会話から「フォークト様」という言葉が聞こえてきたりして、なるほど「世界最高の白鳥の騎士」の人気はすごいものだ、とちょっと恐れをなす気分。確かに、舞台映えする容姿と美声にはもう文句のつけようもない。でも、これがリートだろうか。
青年の若々しさも、それぞれの曲に盛り込まれた情感も、十分に伝わってくる。でも詩の言葉ひとつひとつの味わいはどこへ? かつて筆者は、リートの第一人者のひとり、白井光子に直接インタビューする機会に恵まれ、リート演奏の核心とも言うべき貴重な話の数々をうかがったことがある。 たとえばドイツ語のRaumという言葉。意味としては「空間」なのだが、「ラウム」という発音(響き)そのものに、イメージや情感の広がりがすでにあって、詩人がなぜその言葉をここに置いたのか、それを作曲家は的確につかみ、音楽にしている。リートとは詩をうたうこと。詩は、選び抜かれた言葉の連なり。歌い手は、こう歌おう、ああ歌おうという余計な図らいを捨てて、一つ一つの言葉の響きを、正確に表現すること。そうして初めて、詩人と作曲家が描いている世界を聴衆の前に描きだすことができる。
白井がそう語ったリートの精神を、フォークトを聴きながらしきりに思い出していた。詩の意味をフォークトは表現しようとしている。でも、一つ一つの言葉へのこだわりこそがリートではないか。詩の意味だけを追っても、そこには矛盾や謎が満ちている。表現が大ざっぱになるのは自明である。 そして旋律の扱いにも少々不満が残った。たとえば「ド-ミ-ソ-ド」と上昇していくフレーズがあるとして、フォークトの歌を聴いていると、この音符の動きが目に見えるような箇所が散見された。正確な音程で歌おうとしている。でも表現としては練れていない。彼のふだんの音楽活動の中心が、やはりリートにはないことがうかがわれる。
ピアノはヨブスト・シュナイデラート。各地の音楽祭の伴奏者、オペラのコレペティとして活躍しているとのこと。リートの経験はどれほど? 歌との連携、得も言われぬ間合いなど期待したが、もどかしさが残った。
客席からは曲間に拍手やブラボーの声。そして『水車屋』全曲のあとで、ブラームスの小品2曲のアンコール。最後にフォークトは、客席に向かってウィンクをして、颯爽と去っていった。
年配のご婦人方が感想を言い合いながら帰っていく。その中から、苦笑まじりのこんな声が聞こえてきた。「本当に綺麗な声! でも、フィッシャー=ディースカウとは違う曲みたいね。」
言い得て妙である。リートとは別の種類のコンサートと思えば、華やぎのある、楽しい公演であったことは確かだ。