特別寄稿|ほんとうの数学|牧野 哲
ほんとうの数学
text by 牧野 哲(Tetu Makino)
先月の丘山万里子さんの<カデンツァ/ほんとうの科学>は、音楽の人が重力波の観測のニュースをどう受け止めたかということを語る貴重なエッセーであり、興味深く読んだ。
古代ギリシャ人は惑星を乗せた天球たちが回転しながら和音を奏でているという「天球の音楽」を信じていたという。回転しているのは地球のほうで、われわれと星の間には空気はないということがわかって、このロマンは消えたが、今回の時空の漣の運んだブラックホールのさえずり音は、本当に音楽の人たちの耳に届いて、感動を呼び起こしたようだ。
ところで、丘山さんはこのエッセーの文末で、アインシュタインの言葉の中から、「私は日常生活ではひとりぼっちですが、真・善・美のために努力している人々のひとりであるという意識のおかげで孤立感をもたずに済んでいます」という言葉を引いている。私は、教職を定年退職した数学者の端くれとして、数学の研究に没頭する孤独な日常を過ごしているので、この言葉は私にもあてはまる。誰とも口を利くことなく、ひたすら計算して一日を終えることも多い。しかし、同時に、論文の執筆を通して地球の裏側に住む数学仲間たちと肉声なき会話をしているとも言えよう。
ただ、数学は(自然)科学とは少し違うところもある。
それは、自然科学が自然を深く見つめ、そこにある法則を知ろうとする営みであるのに対して、数学は第一義的には、「これまで誰も見たことのない風景をもつ新しい世界を人間精神のなかに自由に創出する」営みであるという点が違うということである。
むろん、新しい世界を精神のなかに創出するといっても、全くのファンタジーを創作するのではない。その世界は論理によって強固に建築されていなければならない。論理がその世界を構築する素材であり、煉瓦であり、材木なのだ。それを組み合わせて世界を構築する主体は、論理ではなく、数学者の構想力なのだが、その新しい世界が確実に存在することを確認する手段も論理しかない。自然科学のように観測や実験でその存在を検証することはできないわけだ。
そういうわけで、私の創出した新しい世界の存在を認めるかどうかは、最終的には数学者のコミュニティーの判断に委ねられるわけだが、それは第二義的なことであり、まずは自分自身が「この新しい世界は確実に存在する。けして幻想ではない」と自信をもてるまで、自分の探索と創造をあらゆる面から吟味し、その細部の結構を余すところなく点検しきらねばならない。
この過程には、「ひょっとしたら、とんでもない思い違いをして、全くの無意味を掴んでしまったのではないか」という不安がつきまとうのだが、そういう不安を抱きつつ検証する過程のスリルもまた、こたえられない快感ではある。
また、世界を美しく構築する手段がなかなか見つからずにいろいろと試行錯誤を試み、莫大な失敗のガラクタの山を築いた末、一条の細い峠道を見出し、一気に眺望の開ける場所に出て、谷底から吹き上げてくる春の匂いの風を胸いっぱいに吸い込んだ時の快感、これも何物にも替えがたい。
こういう試行錯誤の過程にせよ、検算・点検の過程にせよ、我を忘れて熱中すると、時間の経つのを忘れる。その時の自分は、対象としての数学を考えているのではない、自分が数学になりきって一体化してしまって、数学を生きている、としか言いようがない。つまり、私にとって、数学とは、アヘン中毒と同じような一種の病気なのかもしれない。
ところが、話はそれでは済まない。丘山さんが述べているように、ほんとうの科学とは、その明らかにした法則に従って無理なく生き、楽しく暮らす文明に貢献するものでなければならないし、たとえば重力波の観測が天文学に革命をもたらすなら、その革命は人類に夢と希望をもたらすものでなければならない。
だから、私が己の知的欲望の赴くままに創造した新しい数学的世界が、人々の幸福に貢献できるものなのか、戦争や過酷事故などの残虐・悲惨に加担する危険はないのか、ということが、自分の数学が「ほんとうの数学」かどうかにとって決定的なことになってくる。
しかし、その点の予測と判断は、私ひとりでは決して容易ではない。
ただ、こうは言えるだろう。私が孤独の中で自らの知的欲求のみに忠実に基づいて紡ぎ出した新しい世界を包み隠さず公開すること、それを人々の批判の俎上に載せ、その意味の検討と利用のしかたの適否を公衆の判断に委ねること、そのことが可能になるためには、非専門家を含む人々に自分の世界を知ってもらうための工夫と努力を惜しまないこと、これしか方法はないだろうということである。
一言でいうと、「ほんとうの数学」には説明責任が伴うのであろう。
直接、音楽とは関係がないが、丘山さんのエッセーを読んでこういうことを考えたのである。
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牧野 哲(Tetu Makino)
1949年大阪生まれ
京都大学理学部卒、大阪市立大学大学院理学研究科単位取得退学
1987年京都大学理学博士
1979~1995年大阪産業大学教員、1995年~2015年山口大学工学部教授