東京都交響楽団 第802回 定期演奏会Bシリーズ/第803回 定期演奏会Aシリーズ|藤原聡
東京都交響楽団 第802回 定期演奏会Bシリーズ/第803回 定期演奏会Aシリーズ
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)撮影:3/24のみ
♪東京都交響楽団 第802回 定期演奏会Bシリーズ
2016年3月24日 サントリーホール
<演奏>
指揮:エリアフ・インバル
語り:ジュディス・ピサール、リア・ピサール
ソプラノ:パヴラ・ヴィコパロヴァー
合唱:二期会合唱団
合唱指揮:冨平恭平
児童合唱:東京少年少女合唱隊
合唱指揮:長谷川久恵
コンサートマスター:山本友重
<曲目>
ブリテン:シンフォニア・ダ・レクイエム
バーンスタイン:交響曲第3番『カディッシュ』
♪東京都交響楽団 第803回 定期演奏会Aシリーズ
2016年3月29日 東京文化会館
<演奏>
指揮:エリアフ・インバル
ピアノ:白建宇(クン=ウー・パイク)
コンサートマスター:矢部達哉
<曲目>
モーツァルト:ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調 K.595
(クン=ウー・パイクのアンコール)
ブゾーニ:悲歌集~トゥーランドットの居間
ショスタコーヴィチ:交響曲第15番 イ長調 op.141
2016年3月のインバル都響来演は2公演、それぞれバーンスタインの『カディッシュ』とショスタコーヴィチの交響曲『第15番』をメインとするプログラム、つまりはこの指揮者の「オハコ」である。特に前者はなかなか実演のプログラムに乗らない曲であり、それがインバルの指揮であれば聴き逃す理由がない。
『カディッシュ』の日は3月24日。この日は前プログラムとしてブリテンの『シンフォニア・ダ・レクイエム』が演奏されたのだが、これが稀に見るような重量感と厚みのある演奏で、リズムの切れも指揮者が本年齢80ということを忘れさせる。一般にイメージされる繊細で神経質なブリテン演奏とはいささか異質で大柄であるが、その説得力は絶大だ。
後半では待望の『カディッシュ』。ご存知の方もおられようが当夜の朗読テクストについて最低限の情報のみ記載しておこう。この曲のテクストは元々は作曲者であるバーンスタイン自身が作成し、むろん自作自演においてはこのテクストが用いられている(1977年に改訂版を作成)。しかし、当夜使用されるのはサミュエル・ピサールが作成した別テクストである。バーンスタインは、当夜ナレーターを務めたサミュエル・ピサール夫人であるジュディス・ピサールを介してこの「法律家、外交官、作家」(月刊都響 No.323より)であるサミュエルと知り合う。そこで、自作のテクストに問題があることを自覚していたバーンスタインは、自身の死の歳である1990年にサミュエル・ピサールに新テクストの作成を依頼。作曲者の生前にはその依頼を断っていたピサールだが、バーンスタインの死後11年が経過した2001年、あの9.11同時多発テロの衝撃を受け何かをせねばとの衝動にかられ、自身の強制収容所体験―アウシュヴィッツ、マイダネク、ダッハウに収容されながら生還したのだ―を想起し、「絶滅収容所における言語に絶する体験と、神の存在にもかかわらず世界が悪に満ちているという矛盾との葛藤を思い出し、ついにバーンスタインの『カディッシュ』のためにテクストを書く決意をしたのである」(引用同。しかしピサールと親交のあったインバルによれば、バーンスタインの死後1、2年経ってから考えた末、執筆にかかるようになった、という。都響ウェブサイトの「インバル・スペシャルインタビュー」による)。
ここでテクストの話については一旦措こう。
さてインバルの指揮だ。これはもう入魂、の一語である。作曲者の演奏に比べればさらに重厚でありリズムの重さもより顕著だが、比較して優劣を付ける問題でもない。とにかくそれぞれのフレーズに対する思い入れと共感度が常日頃の(というよりも乗り気ではない)インバルとは明らかに異なる。楽曲を咀嚼しつくして血肉化している。この指揮者は抜群の耳の良さとテクニックを持っているが故にどんな曲でも「外側」を見事に作り上げることが出来るので、語弊を恐れずに書くならば「仏作って魂入れず」ということがままある。「仏」を完璧に作り込めばすなわちそれが大概は名演となる曲―例えばストラヴィンスキーやラヴェル―は言うまでもなく得意であるが、外側の造形と内的パッションが見事に噛み合い稀有な演奏を生み出すのは、近代レパートリー以外ではまずはやはりマーラーだろう。そのマーラーを指揮した際に聴かせてくれるのと同種の燃焼を今回は聴かせてくれたのである。
二期会合唱団と東京少年少女合唱隊は、普段歌い慣れないであろうヘブライ語をそつなくこなし(と言うか、筆者にしてからが分らないがそう聴こえた)、パウラ・ヴィコパロヴァーのソプラノも出番は少ないながら美しく鮮烈な歌唱を聴かせる。演奏部門に対してはとにかく賞賛。ジュディス・ピサールとリア・ピサールのナレーションは、むろん元来は専門ではないので、いわゆる職業的な上手さとは縁がない(不慣れなために「入り」が遅れたと思しきシーンも)。しかし、この曲と当夜のコンサートでのコンテクストからはそういうことは問題ではなかろう。十分に感銘深かった。しばしば母親のジュディスが娘のリアの方を見て微笑み、腕に手を回す。
ここでテクストの話に戻る。
最初のバーンスタイン作成のものは、最終的には神への賛美で終わるにせよ、その過程においては神への疑念、怒り、不安などが入り混じったすこぶる強烈なものであるが(お陰で初演時には抗議すらあったという)、これはいわば実存的な観点からのテクストであり、自身と神との内的な関連こそが問題とされている(ように読める)。
対してピサール版では、自身の強制収容所からの生還という立場から、アウシュヴィッツについて(とりわけ、他の大勢の人間が殺された中で他ならぬ「自分」が生き残ったことに対する戸惑いについては度々言及される)、ヒトラーについて、広島・長崎(これは今回の公演のためにピサールが書き加えたという)、あるいはこんにち世界に波及しつつある民主主義の危機、さらにはIS(イスラム国)などに及ぶテクストの広がりを見せ(視力が悪くなったのと、大量の字数のために十全に字幕を追えていないのだが…)、これはむろん「神が存在するのに何故このような悪が存在するのか?」という問題においてバーンスタイン版と共通する要素があるのは言うまでもないにせよ、バーンスタイン版のような「抽象化」を経ないがゆえに直接的で現代の聴衆には分りやすいとは言え、深みに欠けるきらいがないとは言えない。またピサール版はバーンスタイン死後のテクストであり、テクスト主義的立場に立てば作品は作者とは別個の自律した存在である、とは言えるにせよ、ピサール版のテクストと作品自体の親和性(もっと下世話に言えばバーンスタインが生きていたならばこのテクストをどう思うのか)についても考えざるを得ない。
がしかし。24日にピサール版のテクストで『カディッシュ』を体験した聴き手は、終演後の帰途で、この24日のコンサートの2日前に発生したブリュッセルでの衝撃的なテロについての、あるいは23日にはオバマ米大統領が5月の伊勢志摩サミットに合わせての広島訪問をホワイトハウスが検討しているという報道を想起せざるを得なくなる。または「民主主義の危機」については、安倍政権の安保法案強行採決を思い出す向きもおられよう。
つまり、否応なくピサールが、ひいては『カディッシュ』という曲が提示する問題との関連について考えを巡らせることとなる。これはバーンスタイン版のテクストでは、恐らくそうはならない。ここまで考えてくれば、ピサール版という新たなテクストがわれわれに新たな視点・思考への契機を与えてくれたと思うことが可能になる。単純にどちらが良い・悪い、というものでもない。さらに長くなりそうなのでここで『カディッシュ』については筆を置くが、より考えたいのはアウシュヴィッツの表象不可能性、このサミュエル・ピサール、あるいはプリーモ・レーヴィ、ヴィクトール・フランクルなど、強制収容所から生還した人が生涯抱える問題や生き方など…。しかしこれらについてさらに何かを言えるのかも分らないが。
この夜、インバルと両ピサール、計3名のソロ・カーテンコールならぬ「トリオ・カーテンコール」があった。3人とも満面の笑みを湛えていた。『カディッシュ』という、3人にとって極めて重大で意味深い大曲を演奏し終えた充実感と安堵、聴衆の歓呼に対する喜び。それは美しい光景だった。
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ショスタコーヴィチは29日。前半のクン=ウー・パイクとのモーツァルトの『第27番』の協奏曲は、指揮とピアノ共々かなりダイナミックな演奏で線が太く、いわゆるモーツァルトらしさはほとんど感じられない。その中ではインバルの協奏曲の「付け」の上手さにはいつもながら感心する。聴衆の熱心な拍手に応え、クン=ウー・パイクはアンコールを弾く。あの「グリーンスリーヴズ」のメロディが妙な装飾を施されて奏でられ、一体これは何だ? と虚を突かれたが、後で聞いた所によればブゾーニの『トゥーランドットの居間』という曲らしい。人を喰ったような「外しにかかった」最終和音にニヤリ。これは面白い曲だ。この曲が含まれる『悲歌集』、チェックしておこう。
さて、この日で問題にしたいのは後半である。インバルにしては冴えないと思った。インバルのショスタコーヴィチは基本的に厳しく、冷徹である。その厳しさが、例えば都響と過去演奏した『第4』、『第5』、『第10』、『第11』などでソリッドな傑出した演奏を生み出していた(ショスタコーヴィチの交響曲はその実、外面的描写性が高く、原色的な響きが多いので冷徹さを極めれば凄い演奏になる、と思う)。しかし、当夜の『第15番』は、この作曲家の交響曲の中ではかなり地味である。大編成のオーケストラを用いながらも基本的には室内楽的に扱い、大きく咆哮する瞬間は少ない。また、ショスタコーヴィチ晩年のなんとも形容し難い不可思議な内面の心象風景、記憶の堆積が刻み込まれており、引用、コラージュやパッチワーク的要素があるにせよ、外面を完璧に作り込むだけでは上手くいかない要素が多い。そこからこぼれ落ちる「名状し難きもの」が多いのだ。筆者は特段「内面性」を信奉する人間ではないけれど(場合によっては警戒すらする)、しかしこの日のインバルはあまりに内面を欠いていた。あの終楽章にまるで意味深さがなく、実にドライで即物的。いわゆる「ゲンダイオンガク」ではないのだから、これはこれでインバル流アプローチだとは理解するにせよ、さてどうなのか。
また、日頃のインバルの音彩の冴えもなく、もっと言えば鈍重。ショスタコーヴィチと言えどもインバルと曲の相性が悪かったのか、コンディションがたまたま悪かったのか、あるいはこちらの聴いた席が悪かったのか(2階L1列2、ほとんど壁寄り)、さらにはこちらの体調でネガティヴに聴いたのか…。
いずれにせよ音楽は本来的には一回性の生モノだ。そう感じた体験は「事実」として残る。しかし数多くインバルの実演を聴いて来た中で、当夜は筆者には冴えなかった方の筆頭となってしまった(大概は何らかの形で満足するのだが…)。
9月の同じ作曲家の『第8番』は間違いなくインバル向きであると思われるので、これには大いに期待している。
(追記)
上記インバルのショスタコーヴィチの原稿を書き終えた後、ある関係筋から、まさに今回のショスタコーヴィチでのリハーサルでインバルがどういうイメージで楽曲を捉えているかを語った、その内容を聞くことができた。それによれば、終楽章コーダの奇妙な打楽器によるアンサンブルの箇所を「死の床の病室での機器の音」に例えたとのこと。心拍、心電図、点滴の落ちる音…。つまり生命維持装置。なるほど。これらは有機体である人命をこの世に繋ぎ止めるための機械だが、機械それ自体はインプットさえあれば定期的かつ無機的、非人間的に作動する。つまり、インバルはショスタコーヴィチの音楽のキモを「冷徹かつ無慈悲な正確さ」と捉えているとおぼろげに理解できる。さらに敷衍すれば、これは共産主義体制下のソヴィエト連邦のメタファーではないか。まさに、当夜のインバルの演奏は実に「冷徹で正確」であった。この「言行一致」ぶりにインバルの指揮者としての実力を垣間見る。しかし、『第15番』は「それだけの」曲なのか、というのが筆者の考えではある。