東京都交響楽団「作曲家の肖像」シリーズ最終回〈日本〉|藤原聡
東京都交響楽団「作曲家の肖像」シリーズVol.106(最終回)〈日本〉
2016年3月5日 東京芸術劇場コンサートホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
指揮:大野和士
ソプラノ:幸田浩子
バリトン:宮本益光
コンサートマスター:山本友重
<曲目>
武満徹:冬(1971)
柴田南雄:遊楽no.54(1977)
池辺晋一郎:交響曲第9番-ソプラノ、バリトンとオーケストラのために(2013)
始まるものがあれば終わるものもある。
東京都交響楽団(都響)は昨年2015年に創立50周年を迎えた。恐らくはそれを節目の年と位置付け、大野和士を新たな音楽監督とし、長期ツアーとしては実に1991年以来となるヨーロッパツアーを敢行し、東京芸術劇場での平日も含むマチネー定期公演(Cシリーズ)という意欲的なシリーズを計画し(2016年春からであるが)、と、いろいろな「始まり」(広義の、と捉えて頂きたい)を予感させる。
そして終わるもの。毎回1人ないしはテーマ性を持たせた括りでプログラミングされた「作曲家の肖像」シリーズだ(これが定期Cシリーズに取って変わられたということだろう)。筆者なども毎回楽しみにしていたのだが、その最終回は〈日本〉である。武満徹、柴田南雄、そして池辺晋一郎の作品で構成された一夜。
まず1曲目は武満の『冬』を聴く。これは武満作品の中ではあまり演奏されない部類の曲だろう。その意味でこれは貴重な機会であるが、中でも文字通り、いかにも凍てついた冬の情景のイメージに溢れる楽曲であり、その音調は終始緊張感と静謐な透明感に支配され、聴く方にも極めて高度な集中力が求められる。7分程度の曲とは思えないほどだ。基本的にはスタティックな進行の中で、アクセント的に打楽器や管楽器が楔を打ち込んで行く。
当日のプログラムによれば、楽曲中、金管にマウスピースなしで強く息を吹き込む箇所には「風のように奏すべき」との指示があるというが、これは作曲者自身が『ノヴェンバー・ステップス』について書いた「尺八の名人がその演奏の上で望む至上の音は、風が古びた竹藪を吹き抜けて行く時に鳴らす音であるということを、あなたは知っていますか?」との言葉と共鳴するものがある。
さらに辿れば、この「風」は、やはり風にこだわったドビュッシーにまで行き着くだろう。実際、この曲の演奏中、筆者にその情感がドビュッシーの『前奏曲集第1巻』所収の「雪の上の足跡」を思い出させた(この曲は風にまつわる物ではないが、しかし『第1巻』は風または風にまつわる曲だらけだ。「ヴェール(帆)」「野を渡る風」「西風の見たもの」)。曲調はむろん似ていないけれども、なぜだろうか。根源的に共通する指向性を感じ取ったのか。自然の声を掬い取るドビュッシーと武満徹。
続いては柴田南雄の『遊楽 no.54』。作曲者自身の解説によれば、「演奏会の最後に置かれる10分程度のオーケストラ曲、なるべく通常編成で、できれば日本の素材を用いて」との意向が都響(第100回定期公演のための曲)および「ワルシャワの秋」から伝えられたとの由。
この曲、あっさり言うならば「東北地方の祭囃子が、ブーレーズ的というよりはルトスワフスキ的な管理された偶然性による即興、及びカーゲル風のシアターピース的演劇性を伴って大真面目に演奏される、それゆえに逆説的にギャグを感じさせる、作曲年が1977年であるが故にもはやいかにもポストモダン風に感じられる楽曲」(筆者が勝手に考えた説明だが。どこが「あっさり」なのか)。
トーンクラスター的な響きから曲は始まるが、途中でフルート奏者が立ち上がってホルンの横に移動。お囃子を吹き始めると打楽器と他の管楽器も参入。さらには定期的に手拍子も入る。祭りの始まり。しばらくすると今度はヴァイオリン奏者30名がそれぞれ別々に弾き始め、かつ思い思いに立ち上がってステージ前方を左右に練り歩く(この曲だけヴァイオリン両翼配置だったのは、通常配置では第2ヴァイオリン奏者が動きにくいからだろう)。その間、舞台後方のお囃子は一定のテンポで継続されるので、オーケストラ内は前方と後方で一見まるで違ったレイヤーに存在して好き勝手にやっている(と見えるように作曲されている)。これが先述の「管理された偶然性」という奴であるが―柴田曰く「即興といっても曲想は確定しており、ただその出現の順序、組み合わせなどが即興的に行なわれる」―、実はルトスワフスキやカーゲルと同時に筆者にはマーラーの「ポリフォニー」を、それよりもさらにアイヴズ『宵闇のセントラルパーク』が連想されて仕方なかった(あの夜を表す弦楽器の静謐な響きの最中に唐突にジャズバンドの音楽が入り込んでくる箇所)。
当夜ではこの柴田作品が1番楽しめたが、これはシアターピース的作品ゆえ、音だけで聴いても楽しいと思われるけれども実演に接してなんぼ、というものだろう。これもまた貴重な機会であった(余談だが、開演前の大野和士と池辺晋一郎のトーク中、都響のコントラバス奏者の柴田乙雄氏は柴田南雄のご子息であると紹介、「息子さんなのに“おとお”さんなんですね」とお約束の必殺おやじギャグを炸裂させていたのはむろん大野氏ではなくて池辺氏である)。
休憩を挟んでのトリが、その池辺晋一郎の交響曲『第9番』。長田弘の詩による歌詞を伴った、ソプラノとバリトンのための演奏時間50分の「大作」である。形式的な感触を他の曲に例えるならば、マーラーの『大地の歌』のような連作歌曲集的な趣(作曲者の念頭にはショスタコーヴィチの交響曲第14番『死者の歌』があったようだ)。当夜の演奏は初演ではなく―初演は2013年9月、下野竜也&東京交響楽団―、さらに作曲者自身の指揮で2015年にも演奏されているとのことなので、これで3回目の演奏ということになる(ちなみに大野和士は自身が初演したかったようだが結局叶わず、今回が初演奏)。
その作品は池辺晋一郎の常として非常に明快で「分かりやすい」。抒情的である。
プログラムの作曲者の言によれば「…1970年代終わりごろから僕は〈社会と個〉というコンセプトを作品に反映させてきた。それが、あの〈3.11〉により〈大自然と個〉という視座に転化した」「それを純粋なオーケストラ作品として具現化したのが〈8〉。より明確に顕在化したのが〈9〉」。
ここで池辺は、長田弘の詩の中から主に自然と人間について歌われたものを9篇選んで音楽化しているが、池辺の音楽及び長田の詩に対し「ナイーヴ過ぎる」と批判するのは容易である。しかし、作曲者は「この曲で示したかった世界を想うとき、現代音楽の語法や方法論などは、どうでもいいことのように思えた」と語っているように、池辺は(恐らく長田も)このナイーヴさを今敢えて、というよりも必然性をもって選択していることに目を向けなくてはなるまい。この曲のⅣ部「世界はうつくしいと」は、こう始まる。
うつくしいものの話しをしよう。
いつからだろう。ふと気がつくと、
うつくしいということばを、ためらわず
口にすることを、誰もしなくなった。
ここで、アウシュヴィッツ以降に詩を書くことは野蛮である、と書き付けたアドルノを想起するのはむしろある程度の歴史意識がある聴き手であれば当然とも言える(アドルノが「アウシュヴィッツ」と書いたものは、ここでは先述のように「3.11」である。長田の詩が3.11以降のものか以前のものかは知らないが、どちらであっても本質は同じことだ)。
しかしそれでも、と長田と池辺は問いかける。この曲を体験する際には、聴き手は虚心にこの作品の「うつくしさ」とそれが何を目指しているのか、を受け止めるために感覚をニュートラルに「開いて」おかなくてはならない。音楽的達成度は、むろん高い。但し、それは括弧付きの高さである、ということも書いておく必要は当然あるにせよ。その「括弧」の意味は聴き手それぞれが考えればよい。
しかし、大野和士のプログラミングのセンス、およびどんな楽曲でもしっかりとまとめ上げる能力には感嘆するしかない。当夜も最初から最後まである意味安心して、それぞれの作品の本質的な表現を聴くことが出来たと思えたのだが、考えてみればこのような作品で聴き手にそう思わせること自体なかなか稀有なことだろう。抜群の知性とテクニックの賜物。