キム・カシュカシアン&レーラ・アウエルバッハ|佐伯ふみ
2016年3月29日 王子ホール
Reviewed by 佐伯ふみ
Photos by 林喜代種( Kiyotane Hayashi)
<演奏>
キム・カシュカシアン(ヴィオラ)
レーラ・アウエルバッハ(ピアノ)
<曲目>
ショスタコーヴィチ:24の前奏曲 Op.34
(アウエルバッハ編曲。ヴィオラとピアノ版)
アウエルバッハ:ヴィオラとピアノのためのソナタ「アルカヌム(Arcanum)」
ドヴォルザーク:ソナチネ ト長調 Op.100(ヴィオラとピアノ版)
筆者が初めてカシュカシアン(1952~)を聴いたのは、東京国際ヴィオラ・コンクールの審査員として2009年に来日したとき。その圧倒的な存在感と、知性と力強さと瑞々しさを兼ね備えた音楽の魅力と。たった1曲でその名前が脳裏に刻まれてしまった。今回の来日公演は、ロシア生まれのピアニスト・作曲家のレーラ・アウエルバッハ(1973~)とのデュオで、ひと味ちがうプログラムを聞かせてくれた。
なんという才能だろう。女性ふたりのデュオだが、実に骨太で、確信に満ちた堂々たる演奏。知的で、かつ魂に訴えかける情感にあふれている。しかもあのカシュカシアンを相手に、20ほども年齢の若いアウエルバッハが一歩も引かず、丁々発止のピアノを聞かせる。こんな演奏はめったに聴けない。
前半は、ショスタコーヴィチの『24の前奏曲』(1933年)。もともとピアノのための作品だが、D.ツィガーノフによるヴァイオリン用編曲(ただし19曲のみ)も知られる。当夜はアウエルバッハが全曲をオリジナルの調性でヴィオラ用に編曲(2010年)した版の演奏。全体で40分ほど、1つ1つの曲は短く、標題はなし。「モデラート」「アレグレット」といったテンポ表示でタイトルに代えられている。ショスタコーヴィチらしく、ひとひねりもふたひねりもあるユーモア、皮肉、憂愁、おどけ。それに先達の作曲家たちの作品のパロディが忍び込む。よけいな思い入れや感情表出を拒否するような音楽に対して、カシュカシアンは、1つ1つの音、フレーズ、リズムを丁寧に読み上げるような、あるいは楷書で書き写していくような演奏をする。そうすることで逆に、テキスト(音楽が語る意味内容)がストレートに聴き手の頭に入ってくるような、説得力ある演奏である。
休憩後の最初の曲は予告と違い、アウエルバッハ自身の作品『アルカヌム』となった。このほうが、先行するショスタコーヴィチ作品との響き合い(影響関係)が明確になったようだ。2013年にこの2人によって初演された作品で、4楽章構成の「ソナタ」と名付けられているが組曲ふうの作り。伝統的な楽章間の対比や有機的関連性といったものは、一聴したかぎりでは聴き取れない。それぞれにタイトルがついていて、第1楽章「到着 Advenio」、第2楽章「灰あるいは死 Cinis」、第3楽章「最後に Postremo」、第4楽章「奪われる Adempte」。冒頭、アウエルバッハのピアノが見事な歌い出し。前衛とか実験的といった新しさはないのだが、響きがこんなにも新鮮なのはなぜだろう。ピアノとヴィオラが実に様々な技法を駆使しながら親密な対話を繰り広げ、心地よく満たされた気分を味わった。
最後はドヴォルザークの『ソナチネ』(1894年初版)。このコンサートを締めくくる演奏だが、アウエルバッハの作品の印象があまりに鮮烈だったため、筆者にはこの曲が陳腐とさえ感じられてしまった。決してそんな作品ではないのだが。本番で演奏曲順が変わったわけだが、おそらく演奏者にも迷いを生じさせるラインナップだったに違いない。開幕にドヴォルザーク、次にアウエルバッハ、最後にショスタコーヴィチと配置すべきだったか。しかしおそらく、アウエルバッハ作品の前にショスタコーヴィチを聞かせたかったのだろう。
アンコールは2曲。アウエルバッハがこのコンサートの前の晩に作曲したという、「まだインクも乾いていない」、できたての新作『桜の夢』。日本語のメッセージを、メモを見ながらしっかりとした発音で読み上げるアウエルバッハの姿に、そして『さくらさくら』の旋律を絶妙の和声で彩っていく音楽に、改めて、驚嘆すべき才気を見る。最後はカシュカシアンがコメントをつけて、彼女のルーツであるアルメニアの民謡をしっとりと聴かせた。