Books | 文系学部解体 | 谷口昭弘

文学部文系学部解体

室井尚 著
角川新書
2015年12月出版 800円

text by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)

個人的な話になるが、筆者は日本で修士課程までを行い、その後、アメリカで博士号を取得した。しかしすぐに研究職に就くことができず、実家の商売を手伝いながら、音楽に関する執筆を行い、2012年4月に、現在の大学に就職している。また室井氏が話題にされている「教員養成課程」出身者で、声楽専攻だったため、専門教科にはレッスンが多かった。いわゆるマスプロ教育の洗礼は、当時存在していた「一般教養」の授業で得たのみである。そういった人間であることをまず明らかにしておく。

また、現在は大学に身を置く人間ではあるが、ここではあくまでも一個人として書いてみたい。

まず、この本はとても刺激的であり、特に大学が文科省の考える「改革」なるものに多くの大学が翻弄させられた経緯が(著者の経験したことも交えて)あからさまに綴られている。そしてそのような中でも高い評判を得た教育プログラムを著者が立ちあげ実践されていること、そしてその過程で培われ、学生との知的交流から得られた著者なりの大学教育のあり方を提唱されている。

著書の中には多くの問題点が提起されているので詳細は各自で手にとって読んでいただきたいのだが、一つ思わされたことは、日本とアメリカで音楽を学んだ筆者個人の感触からすると、アメリカの方が、いわゆるhumanities や arts に対する視線はずっと暖かいということだ。少なくとも「役に立たない」という人には出会ったことがない(いないとは言わないが)。また当方が訪れたことのあるボストンのマサチューセッツ工科大には立派な音楽図書館があり、特に20世紀音楽の資料が揃っていた。この大学の教授陣には、ボストン近郊では名前の知れたジョン・ハービソンもいる。つまり「理系」に特化しているような大学においても、決して「文系」、あるいはその中でも日本では冷遇を受けそうな音楽は軽視されていないのではないかということである。

その前に、そもそも「文系」「理系」というざっくりとした分類は、少なくともアメリカでは聞いたことがなかった(日本では嫌というほど聞かされたが)。また、アメリカにもアイビー・リーグといったエリート校を匂わせる言い回しはあるものの、日本が予備校を通じて発表する明確なランキングのようなものは存在せず、ビジネス誌がたとえそれに類するものを発行していても、だからといってそれが絶対的な階層化まではいっていない。大学選びといっても、とても優秀でハーヴァードに行ける実力があると皆から認められた学部生であっても、私立大学の膨大な授業料のため、他の大学を選んだ学生もいる。つまりあまり意味のない大学の分類を行ったり「ランキングを上げる」ことよりも、研究や教育が健全になされる環境を作ることが求められるのではないだろうか。

一方、リベラル・アーツというものが何なのかということについて、室井氏は多様な価値観に触れることによって、自由だと思っていた自らが様々な固定観念に縛られていて、実は自由ではないということに気づく、そのプロセスなのではないかという趣旨のことを述べておられた。もちろんそれもとても大切だと筆者は感ずる。ただそれだけでなく、リベラル・アーツの諸科目は、やはり人類の知の結晶を知る、現代社会に市民として生きるために必要なものであるという認識を当方は持っている。これは経験から感ずることなので、数値で「科学的」に説明できるものではない。例えば音楽についていえば、音楽によって肉体的な「満腹感」は満たされないものの、人間が生きる上で根幹をなす行為ではないかと思っている。それは音楽のあり方が様々で、普遍的な一つの定義に集約できることではない一方、人間の音楽行為は、あまねく人間世界に存在しているからだ。

室井氏がこの本で述べておられることは、もちろん筆者が上っ面を書き連ねたような戯言ではなく、より深いものだろうし、あるいは現実的な大学のあり方の問題でもあるのだろう。しかし、そもそも個々の人間にとって「学ぶ」行為とはどんなものなのかを、筆者は『文系学部解体』から大いに考えることになった。

最後に付け加えることがあるとすれば、行政は大学を含め教育の支配者になろうとせず、教育に仕える・奉仕する(林竹二『教育亡国』)立場であって欲しいと願わずにはいられないということだろうか。