パリ・東京雑感|本当は怖い《美しい日本》|松浦茂長
本当は怖い《美しい日本》
text by 松浦茂長( Shigenaga Matsuura)
photos byマルコ・バルボン(Marco Barbon)
久しぶりに『ビルマの竪琴』を観て考え込んでしまった。物語が書かれたのが1947~48年、映画が1956年。町内会が主催したのだろうか、空き地に設えたスクリーンに上映したのを観たような気がする。日本が貧しく、戦争の傷がまだうずく時代に、人々の鎮魂と平和を祈る気持ちを結晶させた作品だった。冒頭に日本兵とイギリス軍の兵士(アジア系と白人の混成)が『埴生の宿』を合唱するシーンがある。日本側は敵を油断させるために宴会で泥酔したふりをしてさかんに歌う。どんちゃん騒ぎを装いながら、敵にさとられずに戦闘態勢を整え終わると、『埴生の宿』を静かに合唱する…死を目前にした自らへの鎮魂歌だ。ところが思いもかけないことにイギリス側はそのメロディーに答えて来た。実は日本が無条件降伏した後だったので、イギリス軍としては戦闘は避けたかったのだ。しかし孤立した部隊は敗戦を知らない。優勢な敵に挑みあわや玉砕というところを、合唱作戦のおかげで、敵との対話が可能になり、素直に降伏を受け入れることができたのである。
流血の記憶が生々しい制作当時は、戦場のひとつの奇跡物語として感動を与えたに違いないが、いま観直すと、合唱シーンは時代と場所を越えた強いメッセージを持っていることに気づいた。自分たちよりはるかに強い敵に包囲され、死を覚悟した日本兵の不安な表情は、イギリス兵が同じ旋律を歌うのを聞いたとたん、別のものに変わる。このあと襲われて死ぬに違いないと思いつつも、一瞬の至福が訪れる。イギリス兵も同じだ。憎悪と暴力と流血のただなかにあって、<美>は人を<共に>別次元に引き上げてくれる。ドストエフスキーの「美は世界を救う」を見事に可視化したシーンだ。
ところが、これと正反対に、「<美しさ>の追求 潜む排他性」とタイトルのついたインタビュー記事が目についた(『朝日新聞』2月3日)。『ビルマの竪琴』の合唱のように、美の王国に参与するとき対立は消え、一致・交感が実現するはずなのに、「排他性」とはなぜなのだろう。インタビューを受けた早川タダノリさんは安倍首相の私的懇談会「『日本の美』総合プロジェクト懇談会」の第1回会合を取り上げ、会長の津川雅彦氏の挨拶を紹介している。「<日本の美>は縄文時代から始まっている。自然を愛する心が今日まで至っている。その証拠が、東日本大震災の被災者が<我慢><忍耐><礼節>という美しい心を見せたことだ。」というのだ。大変結構な挨拶に聞こえるが、どこか気持ち悪いところがある。その危うさを早川さんは鋭くえぐり出し「この論法が高じると、我慢しない被災者は<美しくない>ことになりかねない。《美しい日本》の称揚は、恣意的に作られた<日本人の価値観>を共有しない者を排除することと表裏一体です。」と警告している。
実際、早川さんの危惧するとおり、杉並区議会で一人会派「美しい杉並」に所属する田中裕太郎区議は、<排除>を声高に叫んでいる。田中氏は、国会で取り上げられ有名になった「保育園落ちた日本死ね!」のブログを「便所の落書き」と決めつけ、「そんな便所の落書きをおだてる愚かなマスコミ、便所の落書きに振り回される愚かな政治家があとをたちません」と嘆く。そして結論として「<死ね>というほど日本が嫌なら、日本に住まなければよいのです」と、まことに正直に<排除>の本音を吐いている。「批判するものは出て行け」-これこそが《美しい日本》の裏の意味なのだ。田中氏のブログのタイトルがこれまた「震災犠牲者に恥じないために」となっているのも偶然ではなかろう。
著名な政治学者が「安倍首相のナショナリズムは《美しい日本》です」と言っていたけれど、これは<強い日本>や<豊かな日本>よりずっと怖いかもしれない。<美しい>は、『広辞苑』によれば「ある事物に愛情を感じるさま。または愛情・好感のもてる事物の状態をあらわす語」であり、きわめて情緒的・主観的で理性的異論を許さない。ヨーロッパ語のbeautifulやbeauとはかなり違う語である。それだけではない。日本語の<美しい>は<きれい>と置き換えることができ、<きれい>は汚れのない、清潔に通じるのに対し、ヨーロッパ語のcleanやpropreをbeautifulやbeauと置き換えるのは無理だ。パリ市のごみ収集車には « propreté de Paris »と書いてあり、これを « beauté de Paris »と書き換えたらパリっ子は笑うだろう。「パリの美」は建築の美であり、清掃局の関わる分野ではないからだ。しかし東京の清掃車に「美しい東京」と書いても、しゃれた標語として十分通用するだろう。
<排他性><排除>の危険は<美しい>という語に含まれる<きれい><清潔>の系列から生まれるのだ。鋭い自己観察をしているブログをみつけた。筆者は若いころ3、4日風呂に入らなくても平気だった。ところが、朝シャンが流行り、彼も毎日シャワーを浴びるようになった。すると、心の中にも変化が生まれ、臭い人への恐怖が生まれたという。彼は、ジョッギングのとき見かけるホームレスの小屋に不思議な憧れを感じ、話しかけようと思うのだが、待てよと引き止める感覚がある。
「しかし、である。彼らは臭くないであろうか、という恐怖にも似た感情が自分の中にチラリと顔をのぞかせる。浮浪者狩りをする少年たちはみな、<臭い>存在が許せない、と語ると言う。同じような感受性が自分の中にも、とくにシャワーを毎日欠かせなくなって以来、強まっているような気がする。若い頃と比べるとそう感じるのだ」
パリでマルコ君というイタリア出身の若い写真家と親しくなった。彼は写真の美について博士論文を書き始めたところ、西欧の美学は時間を超越したイデアが根本にあるので、瞬間を論ずるのが難しい。写真のとらえた瞬間の美を論ずるために禅の時間論に助けを借りられないかと、僕に相談に来たのである。あるとき、彼に「美と清潔は違うことを証明する写真をくれ」と頼んだら、モロッコの裏通りに割れたスイカが落ちているのをくれた。マルコ君はアフリカやインドの貧しい生活を好んで撮るが、彼のカメラを通すと、垢で汚れた顔に冒しがたい品位が備わり、女たちの日常の労働がカラフルなダンスに姿を変える。魔法のような変容だ。<臭い>はずの被写体が輝いて、僕の中の貧困・不潔に対する嫌悪・偏見・差別を黙らせてくれる。『ビルマの竪琴』の合唱が垣間見させてくれた<美>の王国、あの一致・交感の至福の王国が、マルコ君の写真からもうかがえはしないだろうか。
さて、安倍首相の掲げる《美しい日本》が怖いからと言って、早川さんのように「政治の世界に<美>が持ち込まれると、ロクなことにならない」と、<美>を切り捨てるのは、音楽を愛する僕にはつら過ぎる。<美>によってしか救われない悪が、この世には存在するのだし…。<美>を逸脱、濫用から守るべく、ドン・キホーテ的闘いに打って出たいのだが、どうやって闘えばよいのだろう。哲学者ガブリエル・マルセルは『存在の神秘』の中で、<美>の不思議な性質に触れている。
「芸術作品は、その作品が生じさせる賞賛によって豊かになり、その事実から真の成長をかち取る。言うまでもないが、この不思議な現象は、いささかも感覚でとらえられるあとを残すことはありえない。それはいわば理念的都市に属している。」
音楽のプロは演奏と批評によって作品を豊かにし、僕のような素人は曲を聴き、感動することで作品を豊かにする…これが僕らの闘いだ。どれだけ豊かにできたかを感覚でとらえることも、知性で理解することもできないけれど、かの謎に満ちた<美>の王国=理念的都市に参与するとき、その存在の確かさに誰しも圧倒されるのではないか。