注目の1枚|ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集第5巻「極限」小菅優|藤原聡

小菅ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ集第5巻「極限」 小菅優

text by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)

<ディスク1>
ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調 作品13「悲愴」
同第12番 変イ長調 作品26「葬送」
同第22番 ヘ長調 作品54
同第23番 ヘ短調 作品57「熱情」

<ディスク2>
ピアノ・ソナタ第30番 ホ長調 作品109
同第31番 変イ長調 作品110
同第32番 ハ短調 作品111

小菅優(ピアノ)
録音:2015年8月17日~22日 水戸芸術館コンサートホールATM

レーベル:ソニーミュージック
商品番号:SICC19004~5
価格:3,800円+税

2011年より開始された小菅優によるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲録音シリーズ。東京の紀尾井ホール、大阪のいずみホールで並行的に行なわれたリサイタルをライヴ収録して発売することはせず、それとは別に水戸芸術館にて周到に組まれたレコーディングセッションによるこのシリーズ、どれもが大変に高水準の内容であった。今回、2015年に録音された第5巻においてその全集録音が完結。

今までの4巻において、それぞれに小菅の視点で何らの内的連関を与えらた楽曲たちをまとめて「タイトル」が付されていた。ここに挙げれば、第1巻「出発」、同2巻「愛」、同3巻「自然」、同4巻「超越」。そしてこの最終巻では「極限」(なお、日本語とドイツ語で別タイトルにしたとの記載があり、日本語では「極限」だが、ドイツ語だと「Botschaft」=メッセージ。日本語の方が良いと個人的には思うが)。この意味するところを小菅は「…最後のこのセットはその中(筆者注:全ソナタ作品)でも最も限界に達している作品をひとつに組み合わせ、『極限』というタイトルをつけることにしました」と語る。どういうことか。それは実際の演奏を聴いてみれば自ずと体感されると思う(ライナーにもその意味するところの記載はある)。そう、まさにここで小菅はこれらの曲の性格を見事に浮き彫りにして、これらの「極限」さをそれぞれに明らかにしているのだ。

ディスク1の『悲愴』冒頭からしてただごとではない。この序奏で、小菅は一音一音の意味をゆったりしたテンポにて噛み締めるように表出していく。物理的な音量としての迫力はあっても、内的には極めて淡々と演奏されることの多い昨今、この意味深さは貴重である。それに対する主部では序奏とは大きくメリハリを付けた非常に速いテンポでいやが上にも焦燥感を煽って行く。有名な第2楽章の情感、終楽章では逆に敢えて落ち着いた色調を演出する(「昂奮して速く弾いてはいけない楽章」と小菅は語る)。このように実に考え抜かれているのだが、それが空転することなく実際に見事な「音楽」に結実しているのがこのピアニストの凄さだろう。その意味で、演奏のみを聴いてもその表現の指向性は理解できるのだが、先述したライナーでの小菅自身の言葉に目を通すならば、言っていることとやっていることが本当に一致していることにさらに感心する(そうではない演奏者もいるということである)。

この調子で全曲記して行くとかなりの長文になるので割愛するが、CD1では最後の『熱情』もまた比類なき演奏。感情の爆発と沈滞の設計。コントロールされていながら開放すべき箇所では見事に開放する。最終楽章は持続しながらじわじわ高揚していく。コーダはまさに「冷静な狂乱」。

ディスク2はいわゆる「後期3大ソナタ」。まだ30歳を少し越えたばかりのピアニストでこれだけの演奏をしてよいのか、というほどの出来栄えという他ない。「歌うように、心の内奥からの感情を込めて」と楽譜に記載のある第30番の第3楽章の繊細さ。第31番の同じく第3楽章、序奏の回帰後の和音のクレシェンド、それに続く単音(この美しさ!)でのフーガ主題の反行形の提示、さらにコーダに向けての流れの上手さ。第32番ではやはりあの第2楽章。ここでは第3変奏のすばらしい「ノリの良さ」。ディスク1も含めこの2枚、聴くべき箇所はここに記載した箇所に留まらず実に多い。

これは日本人が録音したベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集の中でも最高レヴェルのセットであろうし、あまたある全ての同曲録音の中でも高みにあるセットと断言できよう(付言すれば、この全集、録音の優秀さは特筆に価する。実に生々しい音がする)。