パリ・東京雑感|狂信を招く学校へ|松浦茂長
狂信を招く学校へ
text & photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
『文系学部解体』という本を書いた横浜国大・室井尚教授の話を聞いてきた。国立大学の文学部が廃止・縮小されるというニュースはフランスでも皮肉たっぷりに大きく報道されたし、友人の文学部教授たちからも嘆きを聞かされていたが、事態は思ったより深刻のようだ。 そこで日本の教育についてにわか勉強を始めたところに、教育の恐ろしさを思い知らされる記事に出会った。『ニューヨークタイムズ』の名コラムニスト、ニコラス・クリストフの「わが友、元イスラム過激主義者」(2月20日)である。 ニコラスの友人というのは、パキスタンのアフガニスタン国境に近い泥づくりの家で、13人の子の一人として育ったラフィ君。両親は文盲の農民で、ラフィ君をマドラサ(イスラムの学校)に送り、コーランを覚えさせ、その功徳で自分も天国に行けるようにと願っていた。ところが、長男が生活を切り詰め、ラフィ君を名門中学に入れたため、新しい人生が開けた。彼はクラスのトップになり、同時に、イスラムの人気教師の魅力にひかれ、タリバンを崇拝し欧米を軽蔑するようになった。ラフィ君は当時の気持ちをこう語っている。 「僕は陰謀理論を信奉し、9・11の爆破はアメリカ人自身がやったことだ、その証拠に、あの日4000人のユダヤ人は欠勤し世界貿易センターにいなかったという説を信じていました。そしてタリバンこそは自由のための戦士と考えたのです。」 ニコラス・クリストフは過激思想を防ぐカギは教育だと書いてきたのだが、その見方は表面的すぎた。パキスタンでは逆に中学・高校がラフィ君を過激主義者にしてしまったのだし、ビン・ラデンはエンジニアであり、アルカイダの現指導者アル・ザワヒリは3か国語を操る外科医だ。パキスタンでは医者やエンジニアが過激主義者というのは珍しくない。その理由についてラフィ君は、「教育システムが専門化されているため、リベラルアーツを学んで批判的思考を身につけないまま学位を取得できるからだ」と指摘する。 さいわいラフィ君はラホールの大学で生まれて初めて教養ある女子学生に出会い、「教育は女を不道徳にする」と唱えるタリバンへの信頼がぐらついた。フルブライト奨学金を獲得してアメリカの大学、さらにオックスフォード大学で研究を続け、いまはタリバンと陰謀理論批判の記事を祖国の新聞に書いている。
ラフィ君の物語から教育の二つの罠が浮かび上がる。一つは狂信を育てる中学・高校、もう一つはリベラルアーツ(一般教養科目)を欠き専門化した大学は狂信に対抗できないという弱点だ。 明治以降の日本を振り返ってみよう。伊藤博文ら近代日本建国の父たちは、西欧を視察し、キリスト教が国民の心をひとつにまとめ国家統一の基盤になっていることに気づき、キリスト教の代用として天皇を神とする新宗教を創作した。新宗教宣教の場は神社ではなく、ご真影を祀る学校であり、師範学校は教師=宣教師養成機関として大切なイデオロギー的使命を帯びた。天皇教を国民の心の支えとする国家建設は大成功し、日本はアジアで初めて戦争に強い近代国家になった。しかし、昭和に入り狂信と堕した天皇信仰がどんな災いをもたらしたかは改めて述べるまでもないだろう。 占領軍は日本のファシズムに学校の果たした役割をよく知っていたので、国体教育の担い手を養成した師範学校を廃止し、教師を目指す学生もリベラルアーツを中心とする一般大学で学び、資格を取るように改めさせた。そこで各県にあった師範学校は新制大学として再出発し、リベラルアーツを<学芸>と翻訳して学芸学部や学芸大学が誕生した。(教育学部の看板を掲げた大学も一部あったが)。 戦後数年で小学校に入った僕らの世代は、リベラルアーツの精神を受け継いだ教師に教えられたのだろうか、宮沢賢治の詩の美しさを発見させてくれた感動的な授業や、男女別々に下校するのを見て「なぜ一緒に帰らない?」と叱った先生の顔を思い出す。先生自身が大学で文学に心を揺さぶられ、真理を求める喜びを知ったのでなければ、生徒に勉強することの魅力を伝えられるはずがない。 僕も文学部で国語教師の免状をもらったし、一般大学で教師を養成することに不都合があるとは思っていなかった。フランスの大学教授に聞いたところ、教師を目指す学生も他の学生と同じように大学で勉強し、そのあと2年間教師になるための技術的教育を受けるのだそうだ。 ところが日本では依然として教師養成に特化した教育学部が幅を利かせ、教師養成のメインコースになっている。なぜだろう。占領軍による師範学校解体とリベラルアーツを中心とする開かれた教員養成は失敗したのだろうか。
室井教授によると、国立新制大学にはかならず教育学部があるが、もともと文学部のないところが多い。そもそも新制大学なるものが師範学校の看板を掛け変えて出発したいきさつから文学部がないのは無理ないにしても、それは文学も含んだリベラルアーツを学ぶ場として生まれ変わったはずだったのに、1966年ごろ学芸学部は一斉に教育学部に変わり、本来の趣旨は忘れられたのだ。 1980年代なかばに教員の需要が減り、教育学部を卒業しても教職につけない者が出たため、教育学部の中に<新課程>なるもの、横浜国大の場合<人間文化課程>を創設した。こちらは本物のリベラルアーツだったので、室井教授によると学生の人気も高く偏差値も高いそうだ。それなのに、文科省は全国立大学の新課程廃止を決め、名実ともに教員養成に特化した教育学部しか許さないことにした。何のことはない昔の師範学校体制に先祖帰りしているのだ。
「初代文相森有礼が学校制度を整える仕事の一つとして1886年に出した師範学校令では,第1条で〈生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス〉と規定した。ここに示されているのは,権威に対しては従順であり,その権威を背景に生徒に向かっては威厳のある態度で接する教師像であった。」(山住 正己)
朝日新聞に小中学校の教員の意識について興味深い論評が載っていた。「日本の30年後は明るいか」との質問に「とても」「まあそう思う」と答えた教師が計22パーセント。楽観派はベテランより若手に多いから、「これから楽観派が拡大しそうだ」と、筆者の氏岡真弓さんは見る。そして未来を信じる彼らは、懐疑派より<愛国心>を育てることに熱心で、<日本は平等な社会>と考える割合が多い。「明るい未来を信じる先生の姿はまぶしい。(中略)だが、彼らは貧しさを抱えた子どもを受けとめられるのか。さまざまな価値観を受けとめ、自ら問いを立てて考える力を育てられるのだろうか」と危惧する氏岡さんは間違っているだろうか。
放送大学で教員養成コースの授業を聞くと、まるで聖書学者が福音書の一言一句を誤りなく解釈しようとするかのように、うやうやしく学習指導要領を注解している。教育学の教授によると、日本は世界に先駆けて一貫した教育課程が定められ、ヨーロッパはようやく追いついてきたのだそうだ。 そういえば、息子が通ったロンドンの公立小学校は「メチャクチャ」だった。2年の時の先生は算数が得意で、息子も英語が覚束なかったから、4年か5年の算数を教え「ケンジはよくできる」とほめてくれた。3年の時の先生は理科が得意で、理科ばかりやっていた。ある日「家にある液体を持ってきなさい」というので、息子は醤油を持参。教室では各自持ち寄った液体をなめたり、匂いを嗅いだり、色を記録したりそれぞれに観察したそうだ。 こういう授業で育った子は学力テストの得点では日本に負けるかもしれないが、自分の目と舌と鼻で知ることを学び、やがて「さまざまな価値観を受けとめ、自ら問いを立てて考える力を育てられる」のではないか。 しかし、氏岡さんの記事によると、楽観派は「教育課程が適切に教えられることを教育委員会が管理・指導することは必要である」と思っているとか。放送大学で耳に挟んだ教育学者の敬虔な指導要領注解は彼らの期待にぴったりなのだ。
戦前・戦中の日本、そしてニコラス・クリストフのコラムを照らし合わせて考えると、いま日本の教育は狂信に対して脆弱さを増していると言えそうだ。文科省が一貫した構想のもとに国家主義イデオロギー教育の準備をしていると考えるのは、文科省の能力の過大評価だ。むしろ、学力が下がったと批判されるたびに戦々恐々として制度をいじり、それを繰り返すうちに今の事態に至ったのだと思うが、仮に将来強烈なカリスマをもった政治家が国民に狂信を吹き込んだとき、取り返しのつかない災いが繰り返されるリスクが高まっていることだけは間違いない。