新日本フィルハーモニー交響楽団第553回定期演奏会|藤原聡
新日本フィルハーモニー交響楽団サントリーホール・シリーズ 第553回定期演奏会
2016年1月27日 サントリーホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
<演奏>
トーマス・ダウスゴー(指揮)新日本フィルハーモニー交響楽団
<曲目>
モーツァルト:交響曲第35番 ニ長調「ハフナー」K.385
マーラー:交響曲第5番 嬰ハ短調
2012年3月、ダウスゴーが新日本フィルに初客演した際のニールセン『不滅』。この野性味と洗練を同居させた演奏の鮮烈さに度肝を抜かれた筆者であったが、初めて指揮したオーケストラからこれだけの音楽を引き出すダウスゴーは只者ではないな、と感じたことをはっきりと思い出す。それから4年、再び同オケの指揮台にダウスゴーが立つ。シベリウスとニールセンのプログラム(2回)と当プログラム(1回)。
モーツァルトはバロックティンパニを使用、ヴァイオリンは対向配置。コントラバスは下手側。モダンオケでしばしば聴かされる厚ぼったい鈍重なモーツァルトとは正反対、キビキビと反射神経がよく、スムーズな流れの中に細やかなニュアンスの変化を封じ込めたダウスゴーの指揮に聴き惚れる。清澄な新日本フィルの弦楽器も抜けるように美しい響きで、はっきりと書くならば「予想以上の」名演。こういうモーツァルトであればピリオドでなくともモダンオケでもいくらでも聴きたい。
後半のマーラーは、結論から書けばダウスゴーの才能は炸裂しており、筆者は優れた演奏と感じたがある意味で評価が分かれる演奏だったとも言える。冒頭トランペットの、輝かしくかつ指示にあるような「タメ」がなく、音色自体も極めて明るい、そしてそれに続くトゥッティもまるで陰性ではない音響を聴けば、この指揮者はマーラーを「ドロドロした情念の渦巻く混沌とした音響体」ではなく、もっとスタイリッシュに捉えていることがすぐに明らかになる。しかし、だからと言ってサッパリとして物足りないという事と同義ではない。例えば第1楽章の「突然情熱的に」との指示がある中間部の爆発では大きなコントラストによる暴れぶりを演出し、同楽章最後での低弦のピチカートの生かし方なども実に見事だ。アタッカで入ると思いきや一旦間(ま)をおいて突入した第2楽章では、弦楽器、木管楽器、金管楽器などのそれぞれのブロックごとの「動かし方」が自在を極め、殊に雄弁なヴァイオリンと木管群は健闘賞もの。終わり近くでの終楽章コラールの「予告」部分での音響バランスなどほぼ理想的、と言ってよいほどのもの。この楽章最後のティンパニの強打にはサントリーホールの聴衆のほとんどが仰天したことだろうが、つまり、情念云々ではなく、マーラーのスコアを改めて清新な目で見直した上で音楽的に構築していく―場合によっては独自の読みを伴いつつ―アプローチが、ダウスゴーの卓越した音楽性のゆえにツボにはまりまくって行くという寸法だ。第3楽章ではワルツ部の自在なアゴーギクがけだし聴き物であったし、名高いアダージェットでは弱音を主体にしつつ儚く歌わせて行く方法で、これも新鮮。続くロンド-フィナーレではフーガの音響構築の明晰さに舌を巻く。また自在にアクセルとブレーキを踏みまくり、これほど面白い同楽章の演奏には滅多にお目にかかれないだろう。終結部も堂々としたもので圧巻の一語。
と、以上絶賛に次ぐ絶賛を書き連ねたが、課題はオケ側だろう。先に記した「ある意味で」とは以下の話であるが、指揮者をも含めた「音楽総体」として捉えた場合は充実していたけれども、14型とは言えオケの弦楽器にはさらに音の厚みが求められよう。ホルンはこの日は大健闘していたものの音程が悪く安定度にもいささか乏しい。また、トランペットはさらに輝かしさが欲しい(しかし、この日のトランペットの抑制は指揮者の解釈でもあるが、出るところはより出て頂きたい)。繰り返すが、大変高レヴェルな演奏であったことは事実ながら、オケの「底力」がさらに増せば、演奏自体がよりグレードアップしたー指揮者の意図がさらに浸透したーものとなったことだろう。
それにしてもホールは沸きに沸いた。ダウスゴーはステージマナーも見ていて気持ちがよいし、新日本フィルとの相性が良いのは今回の客演でさらに明白になった。いっそのこと「首席客演指揮者」に就任して頂きたい、ほど。次回の登場が待ち遠しい。