folios critiques②|ピエール・ブーレーズあるいは〈中心かつ不在〉|船山隆

folios critiques②

ピエール・ブーレーズあるいは〈中心かつ不在〉

text by 船山 隆(Takashi Funayama)
photo by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

ピエール・ブーレーズの訃報を知ったのは、藝大時代の教え子で現在パリに住むジュヌヴィエーヴ・ブルートシュからの電子メールであった。簡単に〈ブーレーズは死んだ〉というタイトルの短い文章だけだった。この文章のタイトルは、おそらくブーレーズがシェーンベルクがこの世を去った時に執筆した〈シェーンベルクは死んだ。ヴェーベルン万歳〉という有名な文章の引用であるのだろう。90歳の老巨匠の死は、オランド大統領の声明を待つまでもなく、フランスあるいは世界の音楽愛好家たちが覚悟していたといってもよい。私はブーレーズの思い出を一人でかみしめようと思ったが、数多くのブーレーズの著書や訳書やCDやヴィデオ、自分で執筆した文章などのすべてを、山形の田舎の家の書庫にしまいこんでしまっているので、ここでは資料にたよらずに、私自身の記憶の中にあるブーレーズの思い出を記してみたいと思う。

私がブーレーズの名前を知ったのは、《音楽芸術》誌に記された鋭い筆法の文章からである。当時は、〈ブーレーズ〉ではなく、〈ブーレ〉と表記されるのが常であった。あの博覧強記の柴田南雄先生でさえ、「〈ブーレーズ〉という発音は、〈braise(消し炭)〉を思わせておかしい」と語っていたのを覚えている。しかし私がブーレーズに注目していくことになったのは、柴田先生の影響だと思う。私が1963年に23歳で東京藝大に提出した卒業論文は、《ストラヴィンスキーの「春の祭典」―音楽の時間論的解明の試み》であった。その論文執筆中にピエール・スヴチンスキーが編集しPUFから出版していた《ロシア音楽》(パリ,1953)というフランス語の2巻本を見つけて入手し、たまたまブーレーズの名前を世界に知らせた《春の祭典》の分析論文を発見した。おそらく半分程度しか理解できなかったと思うが、1章をもうけたところ、卒論の審査にあたった大宮真琴先生が絶賛してくれた。大学院の入試に失敗した私は、1年浪人し、修士論文ではブーレーズの形式論をあつかったが、これはみじめな失敗作であったと思う。

私は藝大の助手に就任し、柴田先生の圧倒的な影響のもとに大学生活を送ることになった。柴田先生は早朝に日吉から愛車で上野公園に来て、駐車中の車の中で採点され、私が9時直前に車で大学に駆けつけると、3階の窓から「オハヨー!」と笑顔で挨拶の声をかけてくる。時間のある時に現代音楽の考え方について教えて下さり、私は先生の無署名の原稿の下書きも担当してテニヲハの使い方についても学んだ。そして1972年8月、家族の見送りを受けながらフランス留学のために羽田空港をたった。パリ第8大学の博士コースに在籍はしたものの、大学にはあまり行かず、音楽会がよいに精を出した。ブーレーズが1954年に創設した〈ドメーヌ・ミュジカル(音楽の領域)〉は、約20年間の歴史の幕を閉ざしつつあった。私は当時毎日新聞にパリ便りを送る約束をしていて、軽い特別な航空便箋で〈ドメーヌ・ミュジカルの終焉〉という記事を送った。弱冠29歳のブーレーズが開始したパリの現代音楽の拠点では、約250曲の新作、75人の新しい世代の作曲家が紹介されたという。

ドメーヌ・ミュジカルの作曲家兼指揮者のブーレーズは、《ル・マルトー・サン・メートル》《プリ・スロン・プリ》《エクラ・ミュルティプル》などの初期の作品を発表。1966年に文化省マルロー/ランドフスキーの音楽政策に反対して、フランス国内での公的な機関に一切協力しないことを宣言し、フランスを離れ、国外で主に指揮者として活躍しはじめていた。1967年にブーレーズはバイロイト祝祭歌劇場の《トリスタンとイゾルデ》の指揮のために初来日したが、長男を身ごもっていた妻とともに大阪まで出かけたことをよく覚えている。指揮者ブーレーズは、バイロイト、BBC交響楽団、ニューヨーク・フィルハーモニックの音楽監督となり、世界の音楽界のスターダムを一気に駆け上っていった。

2年に近い私の留学生時代の最後、1974年の3月6日、パリのテアトル・ド・ラ・ヴィルの大ホールでは、ブーレーズの記者会見が開かれた。ポンピドゥ大統領とフランスの音楽界の一大刷新を相談していたブーレーズが、パリに新しい現代音楽センター、〈音楽・音響の探求と調整の研究所((1995年))〉創設を発表するためである。実に丹念に準備された全体の設計図は、大きな反響を呼び、私も毎日新聞に〈モデルのない音楽の領土〉という文章を送った。

私がブーレーズに初めて会ったのは、今から40年以上も前の1974年、留学から帰国した年の秋である。49歳のブーレーズは、自ら音楽監督を務めるニューヨーク・フィルとバーンスタインとともに3度目の来日の時であった。ブーレーズは私の質問をみごとに整理しながら、明確な語り口で話を進め、翌年にはBBC交響楽団との契約が切れ、3年後の1977年にはニューヨーク・フィルをやめることを話していた。「私は指揮者として現代音楽をプログラムに定着させたし、聴衆を新しい角度から組織しなおし、現代の音楽生活をかなり刷新いたしました。これだけのことをしたのですから、もう自分の作曲の部屋に戻ってもよいでしょう」さらに現代の作曲家のかかえる様々な問題点を整理し、約束の時間の1分前に、すりきれたストラヴィンスキーとヴェーベルンの楽譜を持って、指揮者控え室から出て行った。しばらくしてホールに行くと、もう《春の祭典》が鳴り響いていた。

その後ブーレーズとはパリや東京で何度か会う機会があった。しかし決して親しい間柄とは言えないと思う。ある時パリのホールで短い時間会うと、ブーレーズは別れ際に私の差し出した本に署名をしてくれて、私の名前を何も見ないでさっと書いたので光栄に思ったが、後で見ると、あの小さな独特な文字で書かれたのは、〈fuyanama〉であった!

2002年10月21日ロンドン交響楽団を指揮@東京文化会館

2002年10月21日ロンドン交響楽団を指揮@東京文化会館

その後もブーレーズは何度も日本のホールの大ステージに登場した。なかでも忘れがたいのは、〈ブーレーズ・フェスティヴァル〉(1995年)と題された音楽祭で日本初演された《レポン》(1981年~1985年)の音響空間である。ブーレーズは、6人の腕っこきのプレーヤーたち、Ensemble InterContemporainというIRCAMと同時に創設した室内オーケストラ、電子音響装置とともに、副題の〈二重の影の対話〉というタイトルに示されたこれまで聴いたことのないような音楽空間を創出した。このフェスティヴァルの打ち上げで、ブーレーズと武満徹がパーティー会場の遠くの席に座っていた影像がまだ目に焼き付いている。ブーレーズが第1回の高松宮殿下記念世界文化賞と第25回の京都賞を受賞していることも付け加えておこう。

私は昨年の春1ヶ月間パリに滞在した。新設の音楽ホール、フィルハーモニー・ド・パリのコンサートを聴くのが主目的であった。パリではコンサートでその作品が取り上げられ、数年間かけて準備された大規模なブーレーズ資料展が開催され、ブーレーズの指揮する姿のポスターが地下鉄の通路の至るところに飾られていた。ブーレーズは花の都の文字通りの花形である。しかしもうブーレーズはいない。代表作の《ル・マルトー・サン・メートル》は「打ち手なき槌」という意味である。この作品の音と言葉の関係について、ブーレーズは、「中心かつ不在」という言葉で説明している。昨年1年間のヨーロッパでは、ベルリン、ロンドン、アムステルダム、ラヴェンナ、オールドバラ、ルツェルンで、ブーレーズ90歳の祝賀イヴェントが開かれている。世界の音楽界は、巨大な指導者を失った。この「中心かつ不在」の現象はこよなく悲しい。

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船山隆(Takashi Funayama)
福島県郡山生まれ。東京藝大卒、パリ第8大学博士コース中退。1984年より東京藝大教授、2009年同名誉教授。2014年より郡山フロンティア大使。1985年『ストラヴィンスキー』でサントリー学芸賞受賞。1986年芸術選奨文部大臣新人賞受賞。1988年仏の芸術文化勲章シュヴァリエ受賞。1991年有馬賞受賞。東京の夏音楽祭、津山国際総合音楽祭、武満徹パリ響きの海音楽祭などの音楽監督をつとめる。日本フィルハーモニー交響楽団理事、サントリー音楽財団理事、京都賞選考委員、高松宮殿下記念世界文化賞選考委員を歴任。