パリ・東京雑感|娼婦・聖女神話 マグダラのマリアから『奇跡の海』まで|松浦茂長

マグダラのマリアから『奇跡の海』まで

text by松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

オペラ『椿姫』のヒロインは最後に聖女になる。「聖女」という言葉が誤解を招くなら、こう言い換えてはどうだろう。ヴィオレッタは財産を失い、愛を犠牲にし、健康を失い、すべてに見捨てられ死を迎えるとき、私たちの知らない自由な世界に足を踏み入れている。喪失は浮世の質量からの解放であり、自由への魂の飛翔だ。もちろん彼女の意識は日常世界にとどまり、医者とやりとりし、アルフレードとの再会に胸躍らせるけれど、魂の根底はすでに別の次元に移っている。歌詞が目に見える世界を語るとき音楽は目に見えない自由圏を語り、言葉と音楽が異次元の表現になっているのだ。

マグダラのマリア(中央) シャンパーニュ地方シャウルスの『キリストの埋葬』から

マグダラのマリア(中央) シャンパーニュ地方シャウルスの『キリストの埋葬』から

では、どうして彼女は天上的高みに上げられたのか。愛人の父の説得に応じてアルフレードを諦めた犠牲の大きさはもちろんだが、決定的なのはアルフレードに金を投げつけられるシーンだ。財布を足元に投げる行為は「金で体を売る女だ」とののしるに等しい。いや「売女」と口でののしるより、現金を投げつける行為にはどぎつい生々しさがある。ヴィオレッタが娼婦に戻ったのは彼女の意思ではなく、アルフレードの妹のための自己犠牲だったのに…。華麗な舞踏会の最中に、盛装した客の前で恥辱に耐えたヴィオレッターーこの辱めが彼女を聖女にする。
キリスト教伝承の中で、娼婦=聖女物語は中心的な重要性をもつ。復活したイエスが最初に現れたのは罪の女とされるマグダラのマリアだったし、そのマリアは船で南仏に渡り、亡骸はヴェズレーの聖マドレーヌ会堂に葬られているという。人気が高いのはフランスだけでなく、イタリアでもマグダラのマリアは聖人の筆頭に描かれ、別格扱いだ。「娼婦が辱めによって聖女になる」という中世からの物語を『椿姫』の中に読み解くのはそう無理ではないだろう。

時代は一挙にとんで、ラース・フォン・トリアー監督の映画『奇跡の海』は娼婦=聖女神話そのものずばりだ。無垢な少女ベスが北海油田で働く男と結婚するが、男は事故に遭い寝たきりになる。彼はベスに奇妙なことを要求する。「俺との愛のために他の男とセックスしろ」と言うのだ。彼女はそれだけが夫を救う行為だと信じ、行きずりの男を誘って苦しいセックスをする。やがて、売春婦の身なりで男をあさるようになり、最後は危険を覚悟でサディストの乗る船まで行って殺される。牧師は「罪の女」だからと、教会の鐘を鳴らして葬儀をすることを拒み、「罪びとは地獄に堕ちよ」と呪いながら墓穴に入れる。
一方、意識不明だった男は、ベスが殺されると回復し、病院を出てベスの遺体を掘り出し、船に乗せて海に埋葬する。そのとき天が開き、晴れやかに鐘が鳴り響く。『椿姫』のパリと対照的に、『奇跡の海』はスコットランドの寒村。罪ばかり強調するプロテスタントの窒息するような空気の中で、ひたむきに売春して歩くベスを見る村人の軽蔑、嫌悪はずっと残酷だ。死に至るまでの恥辱に耐えることで夫を救った聖女の奇跡物語である。20世紀に(1996年デンマーク)こんな時代錯誤の物語が観客の失笑を買うどころか、感動させ、数々の賞を獲得したのをどう解釈したらよいのだろう。

常に人々の蔑みと嘲りの的になる女の代表が娼婦だとすれば、常に軽蔑と嘲笑の対象となる男の典型は狂・愚者であり、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドノフ』にはご存知の聖愚者(ユーロジヴィ)が登場する。狂・愚者=聖人物語を中世までさかのぼると、たとえば、司祭を殺し破門されたフェリックスという男の『聖母の奇跡』なる話がある。フェリックスは司教に許しを求めるが、「私にはあなたの罪を許す力がない」と大司教へ回され、大司教は教皇に回し、教皇は隠者のところへ行けと言い、隠者は神の狂者に許しを求めなさいと勧めた。がっかりしたフェリックスは町から町へ狂者を訪ね歩くが願いは遂げられない。
ブザンソンに着くと、はだしで町を駆け回る狂者がいた。町の人々がぼろ靴や臓物を投げつけ、つねったり叩いたりするので、一刻も休む暇なく逃げ回らなければならないのである。ところが、夕方になると荒れ果てた礼拝堂にこもり、昼間の落ち着きなさと対照的に静かに祈り、黙想する。やがて狂者が眠りに落ちると聖母とそのお供が彼を訪れ、それを見て、フェリックスはようやく探し求めた神の狂者を探し当てたと知る。

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神に憑かれたロシア女性 聖セルギー大修道院で

神の愛にとりつかれ、世への関心を失った人は、世からすれば狂気である。ロシアではとりわけユーロジヴィが愛され続け、モスクワで見た『ボリス・ゴドノフ』ではバケツのようなものをかぶったユーロジヴィが悪童どもに追われて登場したし、いまも修道院の庭には普通と違う人が一人で笑ったりつぶやいたりするのに出会う。
教皇や聖なる隠者ですら許す力のない罪を許すことができる神の狂者。狂がかくも貴ばれたのはこれ以上の辱めは考えられないから。そして「恥の文化」に生きる中世人にとって辱めは死よりつらい究極の苦しみだからだ。究極の苦しみには究極の贖罪力が期待されるはずだし、同時に恥辱は十字架の恥を耐えたイエスを真似る喜びでもある。恥を憎む封建社会と恥を讃えるキリスト教という二重モラルの中から、こうして西欧は辱めのなかに最も高貴なものを見る伝統を生み出した。

とすると、娼婦=聖女神話はヨーロッパにしかあり得ないのだろうか。最近テレビで溝口健二監督の『赤線地帯』を見直すチャンスがあった。中年のゆめ子は田舎で暮らす病気の義父母と一人息子のために稼いでいるが、上京した息子に客引きの嬌態を見られてしまう。工場に就職した息子は、母が電話をかけてくるのさえいやがる。やっとのことで息子に会うと、母親を恥じて絶縁を言い渡され、ゆめ子は発狂する。ひたすら息子のために売春の恥辱に耐えてきたのに、その息子から憎悪と軽蔑をぶつけられ、捨てられるすさまじいシーンだ。
しかし狂うことの中に、あの天上的自由へのアナロジーを見るのは無理だろうか。現実のゆめ子は精神病院に閉じ込められるのだが、彼女の魂は質量を失った世界へ舞い上がるのだ。店に戻り、じっとうつむいていたゆめ子は突然立ち上がり、大きな声で歌い始め、客と女たちを唖然とさせる。狂は彼女に残された唯一の救いであり、彼女を狂わせたのは溝口の優しさではなかったのか。
能『隅田川』は、息子を人買いにさらわれて狂った母が諸国を捜し回る物語で、その中にこんな台詞がある。「たとへ都の者なりとも、狂女ならば面白う狂へ」。精神異常を「面白い」と言うのはひどい侮辱にも聞こえるが、からかうつもりはあるまい。狂のなかに日常を超えた魂の自由を感じとり、我々をしばし解き放ってくれる者として尊んだのではなかろうか。
それはともかく、溝口の描いた現実が目を覆いたくなるような困苦であるのに、映画を見終わった私たちは心が高められた充足を感じるのはなぜだろう。押しつぶされそうになりながらも、プライドを失わずに立ち上がろうとする女たちの強靭な人格力に打たれるのだろうか。いやそういう女ばかりではない。息子に辱められ、捨てられたゆめ子は、生きてゆくために必要な最小限の誇りまで木っ端みじんにされ、空っぽになった。娼婦の辱めとは自我が虚ろになることなのだ。そして、そのとき空虚な魂に崇高な変容が起こる。私たちにその変容を感じ取る能力が備わっているのは、人間の心の無意識の底に、娼婦=聖女神話の人類普遍の原型が植え込まれているからに違いない。