前田裕佳 ピアノリサイタル|大田美佐子
前田裕佳 ピアノリサイタル
〜メロディとソノリテ(響き)の交錯 フランスと日本のレフレクシオン(反響)〜
2015年11月8日 神戸 CREOLE (クレオール)
Reviewed by 大田美佐子(Misako Ohta)
<曲目>
第一部:
オリヴィエ・メシアン: 《幼子イエスに注ぐ20の眼差し》より 「11.聖母の最初の聖体拝領」
武満徹:「雨の樹素描 オリヴィエ・メシアンの追憶に」
クロード・ドビュッシー: 《前奏曲集第1/第2巻より》「夕べの大気に漂う音と香り」「亜麻色の髪の乙女」「妖精たちはあでやかな踊り子」
フィリップ・ルルー:「ピアノのための”AMA”」
第二部:
細川俊夫:「ブーレーズのための俳句 75歳の誕生日に」
ピエール・ブーレーズ:「天体歴の1ページ」
三善晃: 「アン・ヴェール」
アンリ・デュティユ: 《プレリュード》「I.陰と静寂から」「II.同一和音上で」「III.対比の戯れ」
先日、都市部のホールの改修問題で、上演場所の確保を懸念する報道があった。拠点となる大ホールの改修は様々な方面に影響があり、代替場所の確保は大変だ。一方でここ数年、関西圏ではクラシック、あるいはノージャンルのライブハウスに活気がある。京都のカフェ・モンタージュなどは先鋭的なプログラムを組み、現代音楽の普及にひと役買っている。そんなライブハウスのひとつ、神戸北野のハンター坂にあるクレオールで、ピアニスト前田裕佳のリサイタルを聴いた。
前田は30代前半の若手ピアニスト。神戸大大学院で作曲家の田村文生氏に師事し、自ら作曲もする。ピアノはパリのコンセルヴァトワールでオディール・ドラングル氏に師事。関西圏の合唱団のピアニストとしても、その活躍は目覚ましい。
《メロディとソノリテ(響き)の交錯/ フランスと日本のレフレクシオン(反響)》と題されたプログラム自体の構成が秀逸だ。まずメシアン中期の大曲「幼子イエスに注ぐ20の眼差し」の「11.聖母の聖体拝領」から始まり、メシアンに捧げられた武満作品、その両者の源泉としてのドビュッシー、そしてフランス音楽界の新しい息吹ルルー。二部では、ブーレーズの75歳の誕生日に捧げられた細川作品に、<ソノリテ>を再発見した2000年代のブーレーズ。ブーレーズとは立ち位置の違うデュティユに深く共鳴していたという三善晃の「アン・ヴェール」の後に、前田自身がもっとも共感する作曲家だというデュティユの代表作品のひとつ「プレリュード」。プログラム全体として、ドビュッシーを中心にメシアン、ブーレーズ、デュティユと、現代音楽界のひとつの大きな流れである<ソノリテ>の系譜と、日本の作曲家との感性の交錯が楽しめる、実に贅沢で聡慧な構成である。
実際に、聴衆はそれぞれの作曲家の手法の違い、クラスターの堆積や減少、鏡像など、音楽の具体的な仕掛けの違いをどこかで理性的に感じつつ、<ソノリテ>の世界を心ゆくまで楽しんだ。プログラムの中央に置かれたドビュッシーの響きが、その後継者たちの響きの狭間に置かれたとき、作品自体が前衛と古典に引き裂かれたように感じる点も実に興味深かった。たぶん、前田自身もこの構成のなかで、ドビュッシーの響きの前衛性と古典的な意味を再発見したのではないだろうか。
特筆すべきは、分析的で知的なアプローチながら、官能的な広がりも感じさせるデュティユのプレリュード解釈。プログラム全体を聴き終わった私は、フランス音楽における“響きの志向性”(前田)とその展開の面白さに、思わずにやけてしまった。クレオールの空間で、響きを振動のダイナミクスとして味わうのも良いが、欲を言うならば、このプログラムはもう少し残響率の高い中程度のホールで、倍音の響きとその行く末に身を委ねて浸ってしまいたいというところ。
今後のシリーズ化に値するような充実したリサイタルを聴き、これからのピアニストは、古典を解釈することを超え、自分の音楽性をみつめ、その世界観を示すことがますます重要になってくると実感した。