佐藤久成ヴァイオリン・リサイタル|佐伯ふみ
宇野功芳企画 第5弾
佐藤久成 ヴァイオリン・リサイタル
2015年11月20日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 佐伯ふみ(Fumi Saeki)
Photo by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<演奏>
佐藤久成(ヴァイオリン)
杉谷昭子(ピアノ)
<曲目>
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ
第8番ト長調Op.30-3
第7番ハ短調Op.30-2
第9番イ長調Op.47「クロイツェル」
ユニークなパフォーマンス 二分された評価
佐藤久成は、その旺盛な演奏活動とともに、未知の名曲を探して絶版になった楽譜を収集、演奏や録音で世に紹介するという貴重な活動で、特異な存在感を示すヴァイオリニスト。オール・ベートーヴェンという正統派のプログラムに挑むリサイタルを聴いた。
演奏後の評価は二分。絶賛の喝采を送る人々と、懐疑的な表情を浮かべる人々。筆者はそのどちらの心持ちもわかり、率直に言って、レビューを書くのは大変むずかしかった。
まず絶賛について。佐藤の音色の美しさ、繊細さは出色である。音と音のあいだをこれ以上ないほど滑らかに、えもいわれぬ美しさで行き来する。その巧みな音の運びを聴いているだけで、うっとりさせられる。ヴァイオリンという楽器の優れた表現力を改めて思わされた。
ただし懐疑的にならざるを得ない面。
書道で言えば、草書のくずしが自由すぎて、元の楷書の形を思いながら見ているとストレスを感じる、そんな感触である。元の形を思わなければ、それはそれで面白いし、クリエイティヴィティも感じる。
聴きながら、イヴリー・ギトリスの演奏を思い出す。変幻自在、天衣無縫の音楽。しかしギトリスの演奏では、草書を思いおこすことはなかった。この違いは何だろう?
やはり、ヨーロッパ人の血の中にある、伝統の力。その音楽が生まれるに至る重層的な歴史が、身体に刻まれているかどうか。
血の中にないものであっても、身につけることも、くずすことも可能だろう。しかし、聴き手に「それもあり」と思わせる説得力、作品の新しい魅力を再発見させる力を持つことは、容易ではない。
もう一つ、作品と作曲家に対する敬意。ギトリスの演奏ではそれを感じたと改めて思う。それが、ギトリスの演奏に確固とした節度、品格を与えている。
佐藤の演奏に、敬意がないとは言わない。ただ、想像するに、音楽史上の有名曲以外にも多数の名曲があることを知っているために、作品の価値が相対化されているのではなかろうか。これは筆者の想像でしかないし、そうであったとしても、もちろん悪いことではなく、当然の成り行きとも思うが……。
やはり聴く側の感動を引き起こすのは、奏者自身の心からの感動と敬意――「この音楽の美しさ、素晴らしさ! すごいでしょう?」――であり、それを聴衆と分かちあいたいと望む熱意、ではないかと改めて思う。
佐藤のパフォーマンスに喝采を送るのか、そのパフォーマンスによって現前した音楽の素晴らしさに喝采を送るのか。
それは表裏一体、分かちがたいものだが、どちらにより大きく針が振れるのかによって、違いも大きい。
さまざまに考えさせられる演奏会だった。
ピアノの杉谷昭子の音色のあたたかさは、佐藤のユニークでアグレッシヴなパフォーマンスを補うかのようで、心にしみた。
しかし特に前半2曲では、かみあわない場面も時折。杉谷自身に「こういう音楽がしたい」という明確な意志があるだけに、自由自在のソリストに合わせるのは大変だったろう。ただ、第7番第1楽章の終わりのオクターヴのパッセージなど、技術的な困難もあったと思う。
『クロイツェル』はさすがに自家薬籠中といった伸びやかさで、特に第2楽章アンダンテでは、ヴァイオリンもピアノもそれぞれの美点が十分に生かされ、素晴らしかった。