エリソ・ヴィルサラーゼ ピアノ・リサイタル|谷口昭弘
エリソ・ヴィルサラーゼ ピアノ・リサイタル
2015年11月21日 すみだトリフォニーホール
Reviewed by 谷口昭弘 (Akihiro Taniguchi)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)
<曲目>
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K333
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第23番 ヘ短調 op. 57 「熱情」
(休憩)
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 K331「トルコ行進曲付き」
シューマン:謝肉祭 op. 9
(アンコール)
ショパン:マズルカop. 34-1
シューマン (リスト編):《春の夜》
ショパン:ワルツ第1番《華麗なる大円舞曲》
ロシアのピアニズムというと「鋼鉄のような」という形容をするのが常套句になっているようなきらいがあるが、この日すみだトリフォニーホールで聴いたヴィルサラーゼは、ピアノの共鳴体が揺らぐような剛直な音で圧倒するのではなく(多少ごつごつしたところはあるが)、知的で細やかな配慮の感じられる楽音の連なりだった。
モーツァルトのピアノ・ソナタ第13番の第1楽章では、古典派のホモフォニーのテクスチャーの原則を守り、美しく旋律を奏でつつ、音楽の構造美に不可欠な、左手や内声に隠れている音の数々を逃さず聞かせていた。古典派ピアノ曲の旋律の純化は、それをささえる様々な要素によって達成されると考えられる。この当たり前のことを彼女がきっちりと音にして具現化しているのが、なぜかとても新鮮に思えた。第2楽章においても、バス声部に美しい楽想が多数あることを教えられたし、第3主題などは、ロンド主題に戻る前のペダルトーンの扱いに、自然に耳が惹きつけられた。
ベートーヴェンの《熱情》では、中途半端なヴィルトゥオーゾがやたら聞かせそうな、これみよがしなフィギュレーションには目もくれず、音楽的に重要な動機を次々とあぶり出していくのが印象に残った。ベートーヴェンの、ピアノのオーケストレーターとしての側面は、決して楽器の機能性に頼って人を表面的なあでやかさで引き込もうとしたのではなく、あくまでも動機の有機的展開や自然なドラマの流れを作り出すものなのだ。わざとらしい間の取り方や、おどろおどろしいジェスチャーなどこの曲の効果を求める聴き手には共感を呼ばないのかもしれないが、筆者にとってヴィルサラーゼの《熱情》は、この曲の本質に迫る、大きな器のような存在だった。
プログラム後半はモーツァルトの《トルコ行進曲付き》ソナタから。ヴィルサラーゼの第1楽章を聴きながら、変奏曲というものは、一つの旋律が数限りなく変形するというよりも、アイディアを次々とこらして一つの旋律を繰り返し聞かせるものだと感じさせた。冒頭に提示される、シンプルな旋律の美が様々な文脈の中で、紡ぎ出されていく。ゆったりとしたテンポで優雅に鳴らした第2楽章につづき、第3楽章では、右手に聴かれるヨーロッパ文脈の「エキゾチック」な音を駆使した旋律が明確に提示され、モーツァルトが関心を寄せていた神秘の遠国に思いを馳せることができた。
ここまでヴィルサラーゼの、知的にリスナーを導いていく姿に納得し、感心してきたのだが、プログラム最後の《謝肉祭》は、彼女は一体どうしたのだろうと、まずは驚かされた。それは筆者のとても表面的な聴取からの驚きで、つまり、明らかに音を間違えたり、抜かしたりした箇所が少なからずあり、そういった音楽的な破綻にも繋がりそうなことを犯してまでテンポを速める必要があるのか、そんなに弾き急がなくても、という反射的な気持ちだった。
しかし、<オイゼビウス>だったと思うのだが、彼女は内声部に隠れている一本の旋律を強調し、ただでさえ拍節感が危うくなるこの曲を、酔い崩れるようなほどのものに巧みに解体していた。またこの曲の他にも、声部間の対話が随所に潜んでいることが分かり、今回のヴィルサラーゼの《謝肉祭》は、サロンに集まる聴き手に注目を集めさせるような賑わいのあるピアニズムを見せつける一方で、まだまだ奥深いシューマンのピアノ曲の魅力を発見させてくれたということだったに違いない。少なくとも筆者はそのように考え、自らを納得させることができた。
今回の公演は、もちろん純粋に充実した、実のある演奏を楽しめるものであったが、それと同時に、音楽の深層に迫りたいと考える音楽家にとっても、学ぶことが多く、またヴィルサラーゼに今後も注目したいと実感させるコンサートであった。