カデンツァ|パリのテロと『氷河鼠の毛皮』丘山万里子|

パリのテロと『氷河鼠の毛皮』

text by丘山万里子(Mariko Okayama)

パリ同時多発テロとすぐさまの報復空爆を憎悪の連鎖、と言い、果てない人間の憎悪に、では私たちは日常のなかで(とりあえずこの日本の、安保法案が成立し、それも喉元過ぎれば、となっている私たち、だ)、どれほど出会うだろうか、と自分に問うてみた。
人間は出会った事物や存在によってしか形成されない、つまり経験からしか、どのような見識も感情も形作られない、一方で、そこから想像力を働かせ、閉ざされた自我の境界線を超えることもある、それこそが人間を人間たらしめる。
だが、私の貧弱な経験値から、人を殺し、自らを殺す憎しみ(もしくは絶対的な愛と服従)をありありと想像するのは難しい。報復もふくめ、その行為に走らせる何ものかについては、その背景の世界規模の構造と、人間存在そのものから考えねばならないが、とりあえず私は自分の想像の手をせいいっぱい伸ばして、何かに触れようと努めるしかない。

9・11のすぐあと書かれた中沢新一『緑の資本論』で紹介されている宮沢賢治の『氷河鼠の毛皮』を思い起こす。テロを、富と貧困の圧倒的な非対称から生ずるものと説く中沢は、この童話を動物たちによる人間へのテロとみなす。それはどんな話か。

「このおはなしは、ずいぶん北の寒いところからきれぎれに風に吹きとばされて来たのです。」と始まるこの話は、イーハトヴ発、最大急行ベーリング行き夜行列車の出来事。
一つの車両には15人ばかりの乗客。中に赤ら顔、ぴかぴかする素敵な鉄砲を持ち、毛皮をいっぱいに着込み、二人分の席を占める太った紳士がいた。富豪のタイチだ。彼はウイスキーをちびちびやりながら、そこらじゅうのひとにくだを巻きはじめる。
いわく、自分の防寒はラッコ裏の内外套に海狸の中外套、黒狐表裏の外外套に加え北極兄弟商会パテントの緩慢燃焼外套。おまけに上着は上等な氷河鼠の頸のところの毛皮450匹分。これから黒狐をひとりで900匹とって見せるぞ・・・そうして他の客たちの防寒着や、帆布一枚の船乗りの若者を馬鹿にする。その様子にじっと聞き耳をたて、何かメモする痩せた赤髯の男。
するうち、皆、眠り、やがて夜が空け、と、列車は急停車する。乗客が顔を見合わせていると、にわかに外ががやがやし、いきなり扉をがたっと開けて入ってきたのはピカピカするピストルをかまえたあの赤髯の男。あとから20人ばかりのすさまじい顔つきをした、「それは人というよりは白熊といった方がいいような、いや、白熊というよりは雪狐と云ったほうがいいようなすてきにもくもくした毛皮を着た、いや、着たというよりは毛皮で皮ができるというた(ママ)方がいいような、ものが変な仮面をかぶったりえり巻きを眼まで上げたりしてまっ白ないきをふうふう吐きながら大きなピストルをみんな握って車室の中に入って来ました。」
熊だか、狐だか、とにかく寒冷地の野生動物たちが武器を持って乗り込んできたのだ。そうしてタイチをはじめとし、動物の外套を着込んだ乗客たちを次々連れ去ろうとする。赤髯は彼ら動物たちのスパイだったのだ。
そのとき、ピストルが鳴り、若者の上着が落ちる、と思う間、赤髯を引き倒した若者が赤髯から奪ったピストルをその胸につきつけて叫ぶのだ。
「おい、熊ども、きさまらのしたことはもっともだ。けれどもな、おれたちだって仕方ない。生きているにはきものも着なけあ(ママ)いけないんだ。おまえたちが魚をとるようなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるように云うから今度は許してくれ。ちょっと汽車が動いたらおれの捕虜にしたこの男は返すから。」
汽車が動き出すと、「さあ、けがをしないように降りるんだ。」
若者の言葉に、赤髯は笑ってちょっと彼の手を握って飛び降りてゆく。

自然界の殺生の法則と人間の<無法>への告発と和解。これを動物たちのテロと中沢は言い、人間と人間の間に起きているのも同じ図式だと指摘する。が、人間界のテロは、それぞれの人為の<法>と<法>の衝突という<無法>の事柄であり、そこに、たとえばこの若者のように、両方の立場や気持ちを汲みとりつつ、武力の暴発に命を賭して待ったをかけ、和解に持ち込む勇気と倫理のある役をになう存在を見出すことが可能だろうか。
すぐに思い出すのは、タリバーンに頭部を撃たれ、奇跡的に回復、2014年のノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女マララ・ユスフザイのことだ。
「本とペンを手に取り、全世界の無学、貧困、テロに立ち向かいましょう。それこそわたしたちにとって最も強力な武器だからです。」「私には二つの選択肢しかありませんでした。一つは、声を上げずに殺されること。もう一つは、声を上げて殺されること。私は後者を選びました。」
彼女は自分を撃ったタリバーンへの憎しみや復讐心はない。平和を愛し、万人を愛するのが自分の魂の声だ、と語った。
本誌前号の松浦茂長氏のコラムにある国境なき医師団(パリ・東京雑感|国境なき医師団の病院爆撃と愛の革命)もまた、どこかに、誰かがいて、動き、働き、世界を揺すぶっていることを告げる。
ではあっても。
賢治のあたたかい童話世界は、遠い。

ではあっても。
たとえば、想像することはできる。
かつて日本は<鬼畜米英>という言葉で人心を煽り、戦争に驀進した。<鬼畜>とは仏教の<餓鬼畜生>からきたものだが、その仏教的な意味はさておき、ここには、相手を人間以下の畜生、と見なす感覚が歴然だ。虫けらは殺せ、ホロコーストも、いや、戦争自体がそういう感覚をもととする。私の血を吸う蚊はパチンと手で叩きつぶす。ありありと、それは分かる。原理は、同じだ、とか。
一人の殺人は罪に問われるが無数の殺戮は正義の戦争の名のもとに正当化される。フランスのオランド大統領も今回のテロに際し、ブッシュと同じく「これは戦争」と言った。その言葉は生々しい。
安保法案に無感覚になりつつある私たちに「これは戦争」と宣言される日が、すでに準備されているのでは、とか。

唯一の被爆国である日本が、帆布一枚の船乗りの若者に、なれないものか。
その姿を、遠くとも、懸命に、思い描いてみる。