ダニール・トリフォノフ ピアノ・リサイタル|藤原聡
Concert Review
2015年10月29日 東京オペラシティ コンサートホール
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
<曲目>
バッハ/ブラームス:左手のためのシャコンヌ
シューベルト:ピアノ・ソナタ第18番 ト長調 Op,78 D.894
ブラームス:パガニーニの主題による変奏曲 第1巻 Op.35
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第1番 ニ短調 oP.28
(アンコール)
スクリャービン:左手のためのプレリュードOp9-1
トリフォノフ:ピアノ・ソナタ~第3楽章
J・シュトラウス2世「こうもり」序曲(トリフォノフ編)
トリフォノフの実演を初めて聴いたのだが、まず驚くのはその「音」自体である。実に美しくどこまでもクリアで透明、それぞれの「層」の絡み合いや色合いの変化が手に取るように耳に飛び込んで来る。また、柔らかさと同時に芯のある強靭な音も出せる。つまり、ピアノを弾く技術、という意味においては彼に敵うピアニストもそうはいないのではないか、というほどである。まずは音の印象から書き始めたのは、それがあまりに卓越していると思われたからだが、ではその類稀なる「音」をもってして彼はどのような「音楽」を聴かせるのか。
1曲目のバッハ~ブラームス編曲の左手のための『シャコンヌ』は、正直に書くならば取り立てて特徴のない演奏に終始したという感だが、2曲目のあの難物、シューベルトの『幻想ソナタ』では冒頭から尋常ではない雰囲気が漂う。まずテンポが非常に遅い。持ち前の柔らかい、鍵盤を撫でるかのような美音でゆったりと慌てずに夢見心地で弾き進めて行くのだが、果たしてこの行き方は第3楽章まで続き、どうやら抒情的な美しさに耽溺しているという印象である。最終楽章に至ってようやくさらなる前進性が前面に出て来たのだが、全楽章を振り返ってみると、当初はソナタではなく、第1楽章は<ファンタジー>との名称を冠せられていたこの曲の「取りとめのなさ」「拡散性」を感じさせるような演奏になっていたと感じられる。筆者はより構築性のある演奏を好むけれど、この曲の特異性を感知させる演奏とは言える。2曲が演奏されたのでここで休憩、と思いきやそのまま第3曲目のブラームス『パガニーニの主題による変奏曲』第1巻を弾く。ブラームスにしてはブラヴーラな効果を前面に出した楽曲であるが、こういう曲ではトリフォノフの良さが見事に生かされる。これも筆者の個人的意見を述べれば、これはブラームスの作品中でもいまいち馴染めない曲であったのだが―それはいわゆる「ブラームスらしさ」と考えられている要素が希薄だからである―、こういった演奏で聴くとこの作曲家の中にあった抑制とは逆のベクトル(しかしそれは表面を派手に取り繕って内面の本音を表さない、という意味でこれもまたブラームス的でもある)をも感じさせた、という意味で実に刺激的に聴けた(もっともトリフォノフが今筆者がここで書いたようなことを考えていたのかどうかはまた別の問題である)。いずれにせよこれほどこの曲を面白く聴いたのは初めてである。
休憩を挟んで、後半はラフマニノフの『ピアノ・ソナタ第1番』。これもまた筆者には茫洋と感じられ取り付く島のない曲であるが、演奏自体は全くすばらしかった。あらゆる技術的な難所はいとも容易にクリアされ、しかしペダルの使い方の上手さにもよるのだろうがあの分厚いテクスチュアがまるで混濁しない。終楽章のコーダ(あのしつこい!)ではホール中が興奮の渦に叩き込まれたと言っても過言ではない。以上、本プログラムを聴いて全体的に感じたことは、トリフォノフは各作曲家/各楽曲に内在する個性を意識的に表出する、というよりは、天性の天才であるこのピアニストの持ち味が上手く楽曲に合致した場合にはすばらしい音楽となるが、そうではないとともすると演奏効果それ自体がまず耳に入ってきてしまう可能性なしとしない、ということである。しかしまだ24歳である。いまから全てを理解して悟られてもたまったものではない。暴れるだけ暴れて頂きたい。
アンコールは3曲、スクリャービン『左手のためのプレリュードOp9-1』、トリフォノフ『ピアノ・ソナタ』~第3楽章、そしてJ・シュトラウス2世『こうもり』序曲(トリフォノフ編)。なんと言っても『こうもり』。ど派手な装飾音をごてごてはめ込みまくり―おかげで元のメロディが埋もれてしまってよく分らなくなるほどだ―この上ない難技巧のオンパレードといった風情(こういうのを聴くとホロヴィッツとの親近性をも感じる)。演奏後は口笛も飛び出し、普段のクラシックのコンサートとは一味違った華やいだ空気である。これもまた悪くない。