ピアニストが二人いたら・・・|丘山万里子

Concert Review

piaピアニストが二人いたら・・・

2015年10月31日 渋谷区文化総合センター大和田さくらホール
Reviewd by 丘山万里子(Mariko Okayama)
Photos by 姫田蘭/写真提供 : ムジカ音楽・教育・文化研究所

<出演>
志村泉&寺嶋陸也

<曲目>
モーツァルト:4手のピアノのためのソナタ ハ長調K.521 *志村&寺嶋
シューマン:幻想小曲集Op.12より *志村

飛翔/なぜ?/夜に

寺嶋陸也:朗読とピアノのための音楽童話「こいぬのうんち」(クォン・ジョンセン作 ピョン・キジャ訳) *寺嶋pf、志村朗読&pf

こいぬの うんち/すずめの からかいうた/なげき/つちくれの からかいうた/おおなき/つちくれの うた/にぐるまの おじさん/ひとりぼっち/にわとりと ひよこ/あめと たんぽぽ/はる

ショスタコーヴィチ:2台のピアノのためのコンチェルティーノOp.94 *寺嶋(Ⅰ)&志村(Ⅱ)
ドビュッシー:白と黒で *寺嶋(Ⅰ)&志村(Ⅱ)
ラヴェル(林光編曲):ボレロ *志村(Ⅰ)&寺嶋(Ⅱ)
<アンコール>
ドヴォルザーク:スラブ舞曲 *志村(Ⅰ)&寺嶋(Ⅱ)

「ピアニストが二人いたら・・・」のタイトルによる、志村泉と寺嶋陸也のデュオ・リサイタル。志村は林光の初演曲など数多く手がけ、中島健蔵賞受賞など現代作品に評価の高い実力派。寺嶋は、作曲家、ピアニスト、指揮者とマルチな才能を縦横に発揮している天才肌。この二人の共通項は、オペラシアターこんにゃく座での活動というキャリアだが、さて二人そろってのステージは。

まずもって、寺嶋作品、朗読とピアノのための音楽童話『こいぬのうんち』が絶品だった。韓国の小学校の教科書にも載っているというクォン・ジョンセン(文)、チョン・スンガク(絵)の絵本に、ピュアで愛らしい音楽11曲を編み入れたもの。作曲家の自作自演という幸福は、「何でもやってみたいピアニスト」志村の絶妙の朗読とあいまって幾重にも輪をひろげ、こんなに楽しく心温まる音楽童話、誰彼なく「聴いて、聴いて!」と手招きしたくなる気分になった。主人公はこいぬの「うんち」。うんちが雀や土くれにからかわれて大泣きしたり、ひとりぼっちが寂しかったり、自分を卑下したり、いろいろの出会いのあと、すぐそばに落ちたタンポポの種が、ずっと降り続いた雨で溶けたうんちを肥やしにして、春、綺麗な花を咲かせました、というお話。うんちの嘆きはほんとうに心に染みたし、大声で泣くところなんて、ピアノがわあっと堰を切ったように鳴って可愛かったし、にわとりとひよこの、ぶりぶり首を振って歩くさまなんて、眼に浮かぶようだったし、なんといっても、大地に吸われてゆく雨のしめやかな響きの淡いカーテンがしみじみと心をうるおしてくれた。そもそも、うんちの話であるからして、ユーモラスなわけで、客席からはしょっちゅうクスクス笑いが洩れる。その可笑しさのなかにも一本通っているのは、弱者というか、すみっこで生きる健気な生命への優しい眼差し、いとおしみ、で、私は思うのだが、寺嶋という人は常にこういうところで仕事をしている稀有な人だ。もちろん、その抜群のセンスとありあまる才気はちょっと別格だが、それ以上に、八面六臂の寺嶋の360度の音楽世界の核心は、実はそこだ、と思える。したがって音も透明度が半端でない。咲いたタンポポには「こいぬのうんちの愛がいっぱいいっぱいつまっていました。」という終句から、志村がピアノに加わってのエンディングの美しさ。そういえば志村も、強制収容所で書かれたユダヤ人作曲家の作品演奏で知られる。二人の協業にはそんな眼差しの交叉が感じられた。

2台ピアノの圧巻は後半のショスタコーヴィチ。シンフォニックな響きの醍醐味を、ときに剛胆、ときに繊細と、たっぷり味わわせてくれた。あまりこの種の楽曲を聴いたことのない様子の多くの聴衆が、二人の最後の颯爽たる打音に思わず小さくどよめいて、一斉に拍手の嵐。なんだか私まで嬉しくなった。こういう、「すごい!」体験が日常から人をどこかへ、と運んでくれる。
最後の『ボレロ』は当然ながら、客席に大きな興奮を巻き起こしたが、演奏の出来、という点で、私はショスタコーヴィチに軍配をあげる。

二人のピアニストは、合わせる、というより互いの音楽性と即興性をぶつけ合う感じで、リズムもアーティキュレーションもかなり自由。溜めがちな寺嶋と急(せ)きがちな志村。なかなかのスリルであった。

終わって外に出たら、折も折、ハロウィンで仮装、メイクした若者たちでごった返す、そこは渋谷の大喧噪。これも日常からの小さなトリップ、とは思ったものの、こいぬのうんちをそっと抱きしめて帰りたかったな。

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