ひびき、あたらし――雅楽|齋藤俊夫
2016年10月1日 神奈川県立音楽堂
Reviewed by 齋藤俊夫( Toshio Saito)
Photos by 青柳聡/写真提供:神奈川県立音楽堂
<演奏>
東京楽所
笙:伊藤えり(*)
箜篌・ハープ:佐々木冬彦(*)
ヴィオラ:市坪俊彦(*)
<曲目>
管絃「平調音取(ひょうじょうねとり)」「越殿楽―残楽三返―(えてんらく、のこりがくさんぺん)」
山根明季子作曲:「平成飾楽(へいせいかざりがく)」
佐々木冬彦作曲:「その橋は天へと続く~笙、ヴィオラ、ハープ及び箜篌のための~」(*)
舞楽「承和楽(しょうわらく)」
舞楽「還城楽(げんじょうらく)」
管絃「長慶子(ちょうげいし)」
雅楽を聴くのは初めてではないのだが、何度聴いてもその音響にやられてしまう。同じ日本の伝統音楽でも能楽のような枯れた世界とは全く異質な、グラマラスで官能的な響き。今回の公演でもその響きを余すところなく堪能させてもらった。
始めの平調音取から越殿楽―残楽三返―、最初の音取の時点でその音響に圧倒された。空間全体を満たす笙の響きのなんとかぐわしいことか。旋律を担当する篳篥と龍笛のなんとたくましいことか。色彩豊かかつ不可思議で、ある種前衛的な音響が会場を満たし、まさに雲上の世界を漂うような夢心地の音楽体験であった。
今回の目玉であるところの山根作品、プレトークでは山根自身から「過去にも未来にもない今しかない質感を目指した」「情報の飛び交うアミューズメント空間としての都市をイメージした」「笙は電飾がオン・オフをするのを模した」「機械的な響きとして篳篥を使った」などのイメージとコンセプトが語られたが、実演でそのような要素が明確に聴こえてきたかというと疑問である。だが、コンセプト抜きに音響そのものに耳を傾けると、羯鼓の刻む「ドン、ドドドドドン」のビートに合わせて楽器全てがほぼトゥッティで鳴らされ、雅楽の伝統と真正面から向き合った、大迫力な、「現代雅楽」として実に立派な作品であった。山根の「ポップな毒性」は今回はあまり感じられなかったが、山根の才能はこのような形で花開くこともあるのかと感じ入った。
山根と同じく現代の佐々木の作品だが、これはいささか疑問が残る作品であった。リリカルな旋律がハープと箜篌で演奏され、ビオラと笙がそのバックを彩るといった形だが、笙はともかく箜篌が箜篌である必然性が筆者にはわからなかった。少女漫画的感性とでも言うべきその繊細さは確かに現代的だとは言えるのかもしれないが、しかし伝統と向き合ったとは言えないのではないか、そのような感覚を強くおぼえた。
後半は楽人も色とりどりの華やかな衣装に身を包んでの舞楽2曲と雅楽1曲であったが、舞楽の舞人入場と退場の時に鳴らされる音楽がまずものすごかった。ヘテロフォニー?トーン・クラスター?西洋音楽では何と呼ばれる技法か判断がつかなかったが、全楽器がトゥッティで全力で弾き鳴らすのである。またも現代音楽真っ青の前衛的な響きが奏でられたのに度肝を抜かれた。
承和楽でも雅楽の圧倒的な音響は緩むことがなかったが、しかしそれに対して舞が極端にスローモーな動きをしており、そしてその2つが見事に調和しているのが興味深かった。還城楽では西域の人間(舞人は真っ赤な面を被っている)が蛇(木製のとぐろを巻いた蛇が舞台上に置かれる)を見つけて喜ぶというユーモラスな舞台設定があるのだが、その喜びを表した2拍子の華やかな雅楽に合わせた、大らかでダイナミックな舞(途中で舞人は蛇を手に取って舞う)が実に愉快だった。
最後を締めた長慶子はそれまでのような強い押し出しはあまりなく、この曲が一番「みやび」という単語のニュアンスに近い、端正で整ったテクスチュアの音楽であった。これまでの演目が前衛主義的雅楽ならば、この長慶子は古典主義とでも言えるかもしれない。
雅楽という世界的に見ても有数の伝統のある音楽がかくも現代において先鋭的な音楽として生き続けており、さらに現代作曲家によって新たな地平が開拓されているということに驚きかつ嬉しくもあった。まだまだ世界には、いや、この日本の中にも未聴の音楽はある、その希望を胸に帰路についた。