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ヴォクスマーナ第40回定期演奏会|齋藤俊夫

ヴォクスマーナ第40回定期演奏会

2018年7月24日 東京文化会館小ホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
写真提供:ヴォクスマーナ

<演奏>
指揮:西川竜太
合唱:ヴォクスマーナ
ピアノ:篠田昌伸(*)

<曲目>
池田拓実:『Vague Objects』(委嘱新作・初演)
福井とも子:『elastic exercise』(委嘱新作・初演)
南聡:『”改造コメディ”への追加の1ページ/月のマドリガル』op.64
   若干の演技と小道具を伴う12人の声楽家とオブリガート・ピアノのための小品(委嘱新作・初演)(*)
平石博一『In The Distance』(委嘱新作・初演)
松平頼暁『Constellation 2』(委嘱新作・初演)

 

毎回「恐るべき」作品を「恐るべき」技量で歌い上げてきた、西川竜太率いるヴォクスマーナであるが、今回はこれまでの40回の定期演奏会の中でも最大級の「恐ろしさ」ではなかっただろうか。恐ろしいと言っても、鬼面人を威すような所は全く無い。それが音楽ではなくなる極限まで作品を追い詰め、しかし緻密に計算し、正確に制御することによって音楽として成立させた、そのような「限界音楽」とでも形容すべき作品が揃ったのである。

池田拓実『Vague Objects』、曲が始まった直後、筆者は誰かが咳払いをしているのかと思ったが、それは母音なしの子音のみで「p」「k」「t」「h」等と超弱音で発声していたのであった。その後も子音のみの発声どころではなく、低音のさらに低音を発声させて声帯の振動を聴かせる(字で表すと「あ”、あ”、あ”、あ”」とでもなろうか)、突然一人が「うおー!はあはあはあはあ!」と叫び、それが全員に感染する、胸や頬や喉を手で叩きつつ発声する、などなど、一般的な「音楽」の範疇には入らないような発声技法が連なり続ける。しかし、それでも何故かそれが「音楽」として感じられたのだ。それはこの謎めいた技法の連なりが、ただのアイディアの羅列とランダムな音の集積ではなく、なんらかの秩序によって形作られていたからであろう。筆舌に尽くしがたい作品だが、まごうことなく音楽であったのだ。

福井とも子『elastic exercise』は2部から成る作品。第1部「mimicry(擬態)」では様々な瓶を尺八のように吹いて音を鳴らし、そこにヴォカリーズが重なる。瓶の音と人声が混じり合い、ひそやかな、神秘的とも言える音響が広がった。
しかし第2部「interpretation(解釈)」ではガラリと毛色が変わった。「だ!」と全員で叫んで足を踏み鳴らして始まり、発泡スチロールをこすり合わせる、ヴァイオリンで「ギー」という噪音を鳴らす、ギロやスネアドラムを鳴らす、等々、道具・楽器を使っての発音と同時に、無声音、単語にならない発声、意味がありそうで壊れている日本語など、合唱音楽の範疇を超える、あるいは異化した荒々しい音楽が展開された。先の池田作品が「歌手の身体的実験」的側面と「論理的構築性」が強かったのに対して、福井作品はもっと音響に注目し、より直感的に作曲しているように思えた。だが、本作品もまたタダモノではなかった。


池田、福井はいわば絶対音楽的な合唱曲、つまり歌詞の意味内容ではなく、発声される音とそれが構築される秩序に注目した作品であったが、南聡『”改造コメディ”への追加の1ページ/月のマドリガル』は音楽劇のような作品でありながら、劇や歌詞の意味内容を異化・脱臼させるという、これもまた異形の合唱曲。
コメディア・デラルテの登場人物、「コロンビーナ」(アルト)、「アレッキーノ/ペドリーノ」(テノール)、「タルターリア」(バス)の3人が化粧をして現れ、他の歌手は縁日で買うようなお面をつけて、さて、どんな「コメディ」が演じられるかというと……これもまた記述が難しい。意味のあるテキストとして、上野千鶴子『発情装置』、藤田博史『性倒錯の構造フロイト/ラカンの分析理論』、竹内久美子の動物行動学に準拠するエッセイ、の日本語と英語ともしかするとドイツ語が歌われ、語られるのだが、これらは断片化されて現れ、街の雑踏の中で自分に関係あるような声が突然耳に入るような効果をもたらす。そして演技としては、縄跳びをする、踊る、歌手が万歳でウェーブを作る(スポーツ観戦でやるようなあれである)、アレッキーノ/ペドリーノか、タルターリア(どちらなのかは確認できなかった)が何故か横たわって死に、男性歌手2人に蘇生される、などなど、ひたすらにナンセンスな展開が続く。しかし「ドタバタ喜劇」として成立していたのである。何が何だか分からないが、面白く、もしかすると何かへの批判が込められているようで、飽きないのである。
しかし、最後に能「山姥」がそれとわかる形で現れたのは筆者にはいささか不満であった。ナンセンスなドタバタ喜劇に最後まで徹して欲しかった。「概してドタバタ喜劇というものは、形式として古典や格言に助けを求めてなんとなくハッピーエンドにしてしまうものだ」と作曲者はプログラムで述べているが、ハッピーエンドで終わる必然性がわからない、いや、この劇になんらかの結末を求めてしまっては物足りない、そう筆者には感じられたのである。


休憩を挟んで平石博一『In The Distance』、これは絶対音楽「的な」合唱ではなく、正真正銘の絶対音楽の合唱曲であった。日本語の発音を引き延ばしての、母音の響きを主役にした前半では、母音のロングトーンに短い子音の発音がトン、トン、トン、とノックするように当たって消えていく。後半は短い発音での子音の響きを主役にしたリズミカルなアンサンブル。どちらも、これまでの3曲のカオスな世界とは全く異なる、透き通った音響世界が広がる。歌われる語は機械的な操作で選ばれ、作曲者の恣意性は全く関与しておらず、また言語的な意味もないのだが、音として実に美しい。そして音楽の構造・形式が古典的な合唱曲とも、また先の3作のような前衛・実験的なそれとも違い、ミニマル・ミュージックの系譜に連なる、平石独自の結晶的な構築美を備えていたのである。「音楽とは鳴り響きつつ動く形式である」というハンスリックの絶対音楽の定義がこれほど見事に当てはまる合唱曲もないだろう。

プログラム最後の松平頼暁は筆者の見る所、池田、福井、南たちの源流とも言える存在。本作品『Constellation 2』はギリシア・ローマの神々の名や、ケプラーの業績を語る文章や、占星術で使われる十二星座などがテクストとして選ばれていたらしいが、1人1音節に分解されたり、日本的シュプレッヒゲザンクとでも呼ぶべき発声で歌われたり、異常に遅い朗読(?)がなされたりと、テクストの意味はほぼ認知できない。そしてグリッサンドで始まり、グリッサンドからポリフォニックな(普通の?)合唱で終わるその音楽は、クラベス、トライアングル、足踏みなども用いられ、しかし、合唱でしかありえないという、精緻に計算された論理的カオスが渦巻く。そう、この「計算されたカオス」こそ松平の真骨頂にして、池田たちに継承されたもの。87歳にしてかくも挑発的な音楽を書き得るエネルギーに改めて感服した。

恒例の伊左治直のアンコール曲『2つの日記』は作曲者の亡母の、子供時代の夏休みの日記をテクストとした作品。甘やかな中に郷愁にも似た切なさが混じり合い、今回の演奏会の強烈な刺激をなだめてくれた。

音楽と人間の想像力に限界があるのか否かはわからない。しかし、今回のヴォクスマーナは従来の想像力の限界を突破してくれた。この合唱団と作曲家たちがいつまで突破し続けられるか、是非とも見届けたい。

                                         (2018/8/15)