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うたひかたらひ春夏秋冬 平野一郎×吉川真澄|能登原由美

うたひかたらひ春夏秋冬 平野一郎×吉川真澄
CD《四季の四部作》発売記念公演

2018年4月28日 杉江能楽堂
Reviewed by 能登原由美(Yumi Notohara)
Photos by 前田剛志

〔曲目〕
平野一郎作曲《四季の四部作》
 吉川真澄(女声)

〈春の歌〉
 対談:笠井敏光(狂言廻し/考古学者)×平野一郎(作曲家)
〈夏の歌〉
  〜〜休憩〜〜
〈秋の歌〉
  〜〜舞台転換〜〜
〈冬の歌〉
 鼎談「四季の考古楽」:笠井敏光×平野一郎×前田剛志(美術家)

 

白州を挟んで舞台と別棟になった客席が対峙した能楽堂。一見普通の民家としか見えない戸口の奥に、今では珍しくなった古来の能楽堂の姿を伝える空間が広がっているとは、一体誰が想像しただろう。そこかしこに人々の日々の暮らしの匂いが漂っている。雨天の可能性を考えて2つの棟の間に仮設の屋根を張ったというが、普段そこは白州ではなく、中庭として使用されているにちがいない。ここでは舞台から聞こえてくる音とともに、吹き抜ける風の音や鳥の鳴き声、近所で遊ぶ子供達の声さえ遠慮なしに飛び込んでくる。日常と非日常、人と自然とを分け隔てなく暮らしていたという、かつての日本の暮らしの音風景とは、このようなものだったのかもしれない。

通常は非公開で、年に数回だけ行われる能の上演以外に使用されることはないという杉江能楽堂。だが、今回はこの一風変わった作品のために提供された。私は貸した側でも借りた側でもないが、その判断は間違っていなかったと即座に思った。作曲者、平野一郎が鼎談のなかで語ったように、「文字」となる以前、「音楽」となる以前のものを想像とともに呼び戻すなかで生まれた本作の、その音楽が生成されていく過程に立ち会うにはありったけの空気が必要だ。コンクリートで密閉された現代の均質な空間では息がもたなくなる。

全体は、能の上演に見立てた構成。今回の演目、《四季の四部作》は文字通り春夏秋冬4つの部分からなるが、「間狂言」のような役割として「対談」が入り、4部の上演後には鼎談が行われた。平野のほか、「狂言廻し」として考古学者の笠井敏光が司会・進行役を務め、CDジャケットに使用されたアートワークや舞台道具を製作した美術家の前田剛志も登壇した。

実際の演者は吉川真澄、ただ一人。「女声」とあるが声帯だけではなく、息を通わせ、喉や唇を震わせ、手や足、体も打ち鳴らす。彼女の身体そのものが、鳥、花、虫、魚、獣、人、あらゆる生命から呼び覚まされる音の様を体現していくのである。そうして音が音を呼び覚まし、音が声を呼び覚まし、声が歌を呼び覚ます。〈春の歌〉の世界である。

いや、音や声だけにとどまらない。音にならない音、声にならない声さえも私たちの脳裏の中に呼び覚ます。平野の故郷、丹後の浜に寄せては返すさざ波に、精霊流しの御詠歌や盆踊唄が蜃気楼のごとく、微かに重ねられていく。死者との対話、黄泉の国への憧憬という、人間の営みのなかから生まれた独自の世界を〈夏の歌〉は描いていく。

祭りを連想させる〈秋の歌〉。人間の原初の姿を見たような気がした。神への敬いと畏れ、五穀豊穣の喜びが、次第に興奮を、熱狂を促し、憑依寸前まで高められていく。やがて絶頂を超えた後に訪れる静寂…。人間の裡にひそむエネルギーの緊張と弛緩が、吉川の体ただ一つによって表された。圧巻であった。

蝋燭の灯りに照らし出された〈冬の歌〉の世界。奈良の石上(いそのかみ)神宮の鎮魂祭に伝わる言葉を軸にしているという。南天の葉を振りかざす吉川は、もはや巫女的な存在となり、荒ぶる魂を鎮めるかのようだ。4部のうちもっとも厳粛で儀礼的な空間であった。

聴き手は吉川が生み出す様々な音に耳を澄まし、その動きやしぐさに目を見開いていく。こうして五感が研ぎ澄まされた頃、鶯を模した吉川の声に、壁の向こうにいる鳥が応答するのを耳にした。あるいは精霊流しの歌の音に死者との対話を聞き取ろうとした瞬間、近くの幹線をバイクがけたたましく走り抜けた。まさに人と自然、生者と死者の世界のあわいにたゆたう私たちの姿を浮かび上がらせる空間となった。

吉川の地元、岸和田市での公演だったこともあり、聴き手の多くは彼女を見に来ていたのかもしれない。あるいは能楽堂をよく知る人々も多かったのかもしれない。現代音楽の公演でしばしば感じられるような疎外感はなく、開演前から和やかな雰囲気であったが、「狂言廻し」笠井の巧みな進行で会場も大いに沸いた。

もちろん、会場が変われば内容も全く違ったものになるだろう。場所や空間だけではなく、演者と聴き手の関係性、聴き手自身の身の構え方によっても左右されるに違いない。同じものは二度と再現され得ない作品だ。実演とは元来そういうものだと思うけれども、音楽も「一期一会」なのだと身をもって感じたことは、これまでほとんどなかったように思う。

 (2018/5/15)