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東京都交響楽団 第877回 定期演奏会Bシリーズ|西村紗知

東京都交響楽団 第877回 定期演奏会Bシリーズ

2019年4月26日 サントリーホール
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
指揮/大野和士

<曲目>
武満 徹:『鳥は星形の庭に降りる』(1977)
シベリウス:交響曲第6番 ニ短調 op.104
ラフマニノフ:交響的舞曲 op.45

 

終演後、しばらく動く気がしなかった。重い演奏会であったと思うものの、何が重たかったかすぐに峻別する気も起らなかった。でもそれは、この演奏会が成功を収めた証でもあったろう。そう信じることからはじめるしかない。
武満、シベリウス、ラフマニノフという、当代きっての人気作曲家の作品が演奏されるとあり、ありふれた趣味の良い演奏会なのだとなんとなく高を括ってもいて、それもまたまずかった。三つともなんてメンヘラ度が高い演奏だったろう、などと思い返したりもする。
いわゆる西洋音楽の中心地から語法の点でそれなりに離れた場所に居て、それゆえ20世紀西洋音楽の例の病理、つまり絶えざる発展と新しさの追求から、この三人の作曲家は距離を置いているように見える。三人それぞれに非同時代的だ。調性で書くことや、抒情的な旋律を保持する道を進み、前衛の潮流に耐えることを選択したのだから(武満の場合、事情はもっと複雑だけれども)。それゆえに彼らの作品は今日、趣味の良い演奏会用作品という地位を欲しいままにしているのである。しかし、大野のタクトは彼らの作品にある影の側面を炙り出していた。
作品にあらわれた作曲家の影の側面? いや、作曲家の伝記的な事実はどうでもよい。当然、それは作品そのものの影である。その影の出現は、今回の作品それぞれの性格に起因するものだった。

武満徹の〈鳥は星形の庭に降りる〉の創作の経緯について確認するには、彼の著作集を開けばよい(『武満徹著作集 第5巻』新潮社, 2000年, pp.15-31.)。マン・レイのポートレートに、後頭部を星形に剃髪したマルセル・デュシャンを写したものがある。〈鳥は星形の庭に降りる〉は、武満がそのポートレートを見た日の夜に見た夢、無数の白い鳥のなかに一羽黒い鳥がいて、この鳥の群れが星形の庭に舞い降りて行く夢が創作の源泉となっている。英題では〈A Flock Descends into the Pentagonal Garden〉。星形の庭が5角形であるというところから、C# E♭ F# A♭ B♭からなる5音階がこの作品の土台をなす。5音階をセリエルに操作して導出されたいくつかの和音が、入れ替わり立ち替わり鳴り続ける。その上に短い主題が異なるセクション間で受け渡されたりして、部分ごとに音の群れは高揚と減退を繰り返し、不定形な夢の無意識の領域をかたちづくっていく。旋律や響きより、この5音階由来の和音による構造体が、作品全体をつなぎとめる契機としてはたらいていたのだったが、ところどころ、特に入りの木管セクションによる笙のようなスタティックな響きなど、音程感覚の厳しさが足りなかった。この作品の性格を決定づけるのは、受け渡される主題の短さと、夢特有の場面転換のような形式感である。この主題の短さと形式感ゆえに、うまく全体に統一のとれない、主題や和音の断片がなかなか連鎖しない箇所が生じてしまっていた。とりわけ木管と弦楽器が音響的にうまく混ざらなかった場面などは、惜しかった。

シベリウスの6番は、初校段階の散文のような作品だった。もちろんこのような感想が出てくること自体、シベリウスの聴き方がわかっていない証拠である。それでも、ひたすら美しい着想の断片で充ち満ちたこの時間を、どう過ごしていいものか戸惑ってしまう。というよりも、剥き出しの思索そのもののような楽章作法が、着想の美しさとうらはらに、苦しい。第1楽章冒頭、弦楽セクションによるドリア調のポリフォニックな合奏は――これは第4楽章の冒頭で再現されるようであるが――清澄で敬虔な、というより湿気をたっぷり含んだ音調。その後の弦楽器のスタッカートのニュアンスも、歯切れの良さというものではない。作品内のどの出来事も、分厚い曇天の下にある。しかしながら、続けざまに登場する美しい着想にかまけて、晴天が覗くなどもってのほかである。それだからやはり大野は禁欲的な方向へと音楽を導く。それでも第4楽章冒頭では、この演奏会のなかで一番オーケストラが主体的に鳴った瞬間を聴くことができた。主題と応答という明確な構造により、オーケストラが目を覚ましたようにドライブしたのである。

さて、メインに据えられたラフマニノフの交響的舞曲について。まったくもってラフマニノフの晩年様式に他ならないこの作品は、苦々しさと苛烈さがどの瞬間にも充満し、あのラフマニノフ特有の甘い音調と憂鬱な音調とのバランスは一気に崩れ去ってしまっている。晩年になって苦々しい苛烈な作品が産出されるというのは多くの優れた芸術家の辿る運命であろうが、ラフマニノフの場合、あの甘さが当時でも今でも売りであるだけに、この作品は一層奇異の感を抱かせるものだ。第1楽章の中間にあるサクソフォンのソロ(今回は上野耕平が担当)でさえ、これ単独では甘美であっても、やはり作品の流れのなかで、枯れた花のようになる。第2楽章のヴァイオリン・ソロも同じ様にして響く。最後第4楽章、グレゴリオ聖歌〈怒りの日〉の引用がはっきりきこえる部分を通り過ぎると、いよいよ熱量が高まる。変拍子の熱狂的な舞曲が終わった後、すぐにブラボーは湧き起こらなかった。会場全体に、ラフマニノフの晩年に対する畏敬の念が共有されていたからなのだろうか。

ちなみに、重い演奏会であった要因として、演奏が一貫して思弁的な傾向にあったことを挙げたい。言い換えると、あまり作品に感情移入することを聴衆は許されていなかったのであり、加えてオーケストラがタクトから離れたかのように自ずからドライブするシーンもそう多くなかった。もちろんそれは個々の作品に即した演奏だったからで――武満では5音階をベースにした数的で緻密な音列操作、シベリウスでは主題の清冽さと主題相互のつながりの自由さ、そしてラフマニノフは晩年様式特有の苛烈さ――、その思弁性は大野の意図するところだったとは思う。

(2019/5/15)

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西村紗知(Sachi Nishimura)
鳥取県出身。2013年、東京学芸大学教育学部芸術スポーツ文化課程音楽専攻ピアノ科卒業。のち2016年、東京藝術大学大学院美術研究科芸術学専攻美学研究領域修了。修士論文のテーマは、「1960年代を中心としたTh. W・アドルノの音楽美学研究」。研究発表実績に、「音楽作品の「力動性」と「静止性」をめぐるTh. W・アドルノの理論について —— A. ベルク《クラリネットとピアノのための四つの小品》を具体例に——」(第66回美学会全国大会若手研究者フォーラム)、「Th. W・アドルノ『新音楽の哲学』における時間概念の位相 音楽作品における経験と歴史に関して」(2014 年度 美学・藝術論研究会 研究発表会)がある。現在、音楽系の企画編集会社に勤務。