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テッセラの春・第24回音楽祭「新しい耳」第1夜 松平敬(バリトン)×中川賢一(ピアノ)〜 イノック・アーデン〜|西村紗知

テッセラの春・第24回音楽祭「新しい耳」第1夜
 松平敬(バリトン)×中川賢一(ピアノ)〜 イノック・アーデン〜

2019年5月17日 サロン・テッセラ
Reviewed by 西村紗知(Sachi Nishimura)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<演奏>
松平 敬(バリトン) / 中川賢一(ピアノ)

<曲目>
第1部
ロベルト・シューマン
ガイベルによる3つの詩Op.30
   〈不思議な角笛を持った少年〉〈小姓〉〈スペインの伊達男〉
5つのリートOp.40より〈においすみれ〉〈母親の夢〉〈楽師〉
ロマンスとバラード第1集Op.45より〈宝探しの男〉
リートと歌 第4集Op.96より〈夜の歌〉

第2部
リヒャルト・シュトラウス
メロドラマ「イノック・アーデン」〜朗読とピアノのための(A・テニスン 作 / 原田宗典 訳 岩波書店刊)

 

音楽上のロマン主義が単なるジャンル名と看做されるようになって久しい。あるいは、時代的にいってロマン主義に属するとされる作曲家の固有名が挙げられるくらいで、なんにせよ音楽上のロマン主義が何であるか、反省されることはそう多くない。
本家本元の文学上のロマン主義が、やがて政治的言説と結びついたが故に後々批判されることはままあるのに対し、音楽上の方はそれどころか穏当な印象を保ち続けている。そこの辺りの歴然とした差を思う者は、音楽上のロマン主義に対する疑問をもたざるをえない。
さて、今回シューマンとR・シュトラウスを並べて聞いて思うに、音楽上のロマン主義の要諦は、「和解の破綻」への志向にある。
和解の破綻。すなわち、約束は果たされず、果たされなかった約束は夢となる。和解の破綻を夢で反転させて、破れた者は自分自身をぎりぎりのところで守るのだ。よってロマン主義に類する音楽作品の夢見るような音調は、究極のところ絶望の符丁である。穏当であるはずがない。実際この日のハイライトは、シューマンの〈楽師〉と「イノック・アーデン」の終盤部分(イノックが再び港町に帰ってきてから)であった。楽師vs.イノックという、絶望対決だったと言ってもよい。

とはいえこの演奏会は、明朗な歌曲を皮切りにスタートしたのだった。《ガイベルによる3つの詩》は各タイトルからもわかるように、それぞれ少年、小姓、伊達男が一人称となる歌曲。3人共々実に健康そうに身の上を語る。伴奏形態も軽やかで快活そのもの。3曲目の伊達男は、心なしかイノックと似た様なキャラクターである。
続く《5つのリート》には、最初の男達の歌が「陽」であるのと対照的に、「陰」が匂い立つ。〈においすみれ〉はいじらしく可愛らしいが、〈母親の夢〉では、前奏から曲の間ずっと鳴り続ける逡巡するような右手の音型がなんとも不気味で、カラスが母親に対して「その赤ん坊はゆくゆくは盗人となり、縛り首になって我々の餌となる」などと歌う、衝撃的な結末が待っている。痛みの表現は〈楽師〉において極まった。結婚式において祝宴のワルツを奏でる男が、愛に破れその結婚式の花嫁の花婿になれなかった悲痛な思いを語るこの歌曲は、直接「イノック・アーデン」に関わる。つまり、物語序盤における、イノックとアニーが身を寄せ合う側でうちひしがれるフィリップの心情、そして物語終盤の、アニーとフィリップが温かな家庭を築き夕餉を囲んでいるところを目撃したイノックの心情と響き合う。祝宴のワルツをかき鳴らす楽師のヴァイオリンは千々に乱れていき、最後は息も絶え絶え、アダージョで閉じる。とはいえ、楽師の心情は区切りのつかないままなのだ。
〈宝探しの男〉におけるどす黒い空気といい、〈夜の歌〉の孤高の境地といい、ここまでで「イノック・アーデン」に必要な素材は、ほとんどすべて出揃ったと言うべきなのだろう。

水夫の息子で腕っぷしのいいイノック、粉屋のひとり息子で心やさしいフィリップ、そして器量のいいアニー。物語の最初に提示されるこの主要な登場人物の構成だけで、「イノック・アーデン」という物語の行方はおおよそ見当がついてしまう。あとは、原田宗典の軽妙でありつつ気品を保った美しい訳文に聞き入り、R・シュトラウスによるライトモティーフの技に舌を巻くばかりだ。
「イノック・アーデン」は朗読が主体であり、ピアノは付随的である。というより、音楽はライトモティーフの戯れにより朗読内容を復唱するのであって(例えばアニーが悲しんでいるシーンが朗読されたあとに、アニーのライトモティーフが短調で登場する等)、朗読で表せなかった部分の表現を担うにはなかなか至らない。それでも、長い航海から命からがら帰郷した後に、愛する妻アニーがフィリップと新たな家庭を築いたと知り、この一家が幸福円満な生活をしているところをイノックが見てしまうときには、おどろおどろしく低音を轟かせてピアノが心情の表現を助ける。物語終盤にある一番の見せ場とも言うべき、臨終を迎えつつあるイノックが語るシーンになると、ピアノはやさしい音楽を奏で、彼を支えようとする。
イノックが再び世界と和解するのは彼自身が亡くなった後のことで、港の人々が彼の魂を称え盛大に葬ることによってである。共同体の力で破綻は繕われる。しかしそこにはもはや、アニーとフィリップの姿はない。

個人的には、楽師vs.イノック(あるいはシューマンvs.R・シュトラウス)ということで言うと、楽師の方に軍配を上げたくなるのだ。音楽は痛みの描写に留まらず痛みそのものにすらなれると、シューマンの方では示されていたからである。

(2019/6/15)