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伊左治直第三回個展―南蛮劇場―|齋藤俊夫

伊左治直第三回個展―南蛮劇場―

2018年12月2日 求道会館
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 平井洋、後藤天、月見天一

〈曲目・演奏〉(特に表記がないものは全て伊左治直作曲)
『酔っぱらいと綱渡り芸人』(作曲:ジョアン・ボスコ、作詞:アルヂール・ブランキ(翻訳:伊左治直)、編曲:伊左治直(2018))
  ピアノ:高橋悠治
『熱帯伯爵』(2010)
  ギター:藤元高輝
『アサギマダラと神の少女・特別編』(2018)
  笙:笙ガールズ(三浦礼美、中村華子、田島和枝)
  ヴァイオリンI:亀井庸州、ヴァイオリンII:迫田圭
  ヴィオラ:加藤美菜子、チェロ:北嶋愛季
『オウムのくちばし』(詩:新美桂子)(2013)
  ソプラノ:太田真紀、ハープ:松村多嘉代、打楽器・:伊左治直
『八角塔の横笛夫人』(2012)
  フルート:織田なおみ
「弦楽四重奏曲『縄』」(2018)
  ヴァイオリンI:亀井庸州、ヴァイオリンII:迫田圭
  ヴィオラ:加藤美菜子、チェロ:北嶋愛季
『空飛ぶ大納言』(2000)
  ヴァイオリン:迫田圭、ピアノ:岡野勇仁
『ビリバとバンレイシ』(2010)
  ピアノ:高橋悠治、打楽器:伊左治直
『舞える笛吹き娘』(2010)
  篳篥:中村仁美
『炎の蔦』(詩:新美桂子)(2013/2014)
  ソプラノ:太田真紀、ギター:藤元高輝
『人生のモットー』(詩:エドナ・ミレイ、訳:伊左治直)(2018)
  ソプラノ:太田真紀
  演奏:〈南蛮楽団〉
  笙:三浦礼美、中村華子、ヴァイオリン:亀井庸州、ヴァイオリン:迫田圭
  ヴィオラ:加藤美菜子、チェロ:北嶋愛季
  ハープ:松村多嘉代、ギター:藤元高輝
  ピアノ:岡野勇仁、フルート:織田なおみ

 

「文化、伝統、そして過去現在未来、つまり歴史とは?」などと考えながら東京文京区にある「求道会館」を訪れた。何だ?この建物は?「仏教の教会堂」とはチラシにもあるが、確かに、十字架などはないが、これはキリスト教会のようだ。並んだ長椅子、正面にある聖像……いや、これは阿弥陀如来像だ。二階には座布団が敷き詰められ、皆でそこに座っている……ここでこれから何が始まるのだろうか?

「落日は 黄昏に高架橋を浮かばせ 喪服を着た酔っぱらいは わたしにチャップリンを思い起こさせた……」
高橋悠治がおもむろに1979年軍事政権下のブラジルでのアルヂール・ブランキの歌詞を朗読した後、「ポロポロと」ジョアン・ボスコ(編曲は伊左治)の『酔っぱらいと綱渡り芸人』を弾く。曲も演奏も、全くコンクール的な基準では「上手くない」が、しかし、それが実に「心に染みる」のである。

藤本高輝のギター独奏『熱帯伯爵』、筆者のポピュラー音楽知識と印象では、これは「ショーロ」というものではないか、と思ったが、そこは伊左治、音階もしくは旋法が独特極まりない。トロピカルにして、優しく、人懐こく、美しい、というより、愛らしい。まるで幼い頃見た(かもしれない)少女の面影を見るように懐かしい。

笙ガールズ3人と弦楽四重奏による『アサギマダラと神の少女・特別編』、「南洋諸島のインファント島では、双子の妖精の歌が、蛾を日本まで誘ったという」(プログラムよりそのまま引用)あの怪獣映画「モスラ」の粗筋がプログラムに載っている時点で筆者の心は沸き立った。笙の竹の音と弦楽の糸の音、それらがアルコ、ピチカート、アルペジオ、ポリフォニー、不協和音でテクスチュアを編む。不可思議にして、全く影のない音楽。

ここはどこなんだ?

太田真紀のオノマトペと詩が混ざり合う『オウムのくちばし』(これは南国の花の名)、作曲者本人が様々な楽器や玩具をせわしなく操り、ハープが美しい音色……だけでなく、妙な奏法や旋律(?)を空間にまぶす。「ピカンテ!」「オラ!」とオウムが歌う。おとぎ話や昔話、人と動物や昆虫や妖精が会話できていたあの世界。

『八角塔の横笛夫人』の織田なおみのフルートはタンギングを弱く、あるいは無しで、また尺八のようにユリをかける、能管のように過剰に息を吹き込んだりしつつも、キーを強く叩く「キー・スラップ」なども使い、聴いてみるとやはりこれはフルートであり、ここはまさに「帝都の浅草十二階凌雲閣」なのである。

私は何を聴いている?

即物的すぎてかえって暗示的かもしれないタイトルの弦楽四重奏曲『縄』、ヴァイオリン2人と、ヴィオラ・チェロの組が対決するように向き合い、グリサンドを多用してものすごく不協和で激しいはずの応酬を繰り広げるが、そこに全く「暗さ」がない。ヴァイオリンの亀井が「ぐわーあ!」と叫んだり、4人で大きくため息をついたりした後、透き通った音と、指板の上を擦っての軋んだ音を交代で繰り返して、軋んだ音で了。全くの謎のだが、謎ゆえの楽しさに満ちていた。

迫田圭のヴァイオリンと岡野勇仁のピアノによる『空飛ぶ大納言』。ヴァイオリンがグリサンドの上下行で自由自在に空を飛び、そこに音を散りばめていたピアノもやがて共に空を飛ぶ。多国籍あるいは無国籍なフュージョン的なスタイルも感じつつ、しかし、やはり「大納言」なのであり、着物姿の太った日本の貴族なのである。2人でふわふわ~と空の彼方に浮かび上がり、最後はヴァイオリンの柄で弦を微かに微かにひっかき、消えていった。

ここはどこなんだ?私は何を聴いている?今は何年なんだ?いや、もうそんなことはどうでもいい。

高橋のピアノと伊左治の打楽器(と色々なモノ)での『ビリバとバンレイシ』、ビリバは「伯爵夫人の果物」、バンレイシは「伯爵の果物」と呼ばれているトロピカルフルーツとのこと。一部プリペアしたピアノを高橋が軽やかに弾く周りで、伊左治が子供のように、ただし理知的かつ音楽的に遊ぶ。伯爵的遊戯とでも言い得ようか。終盤、伊左治はピアノの内部奏法を繰り広げるのだが、演奏後、彼に向けた高橋の笑顔が実に優しかった。

中村仁美の篳篥独奏『舞える笛吹き娘』、雅楽のように、神楽のように、京劇のように、チャルメラのように、電子音のように、南国の鳥のように、あるときはゆったりと、あるときは超高速で舞い、吹き、我らを共に「どこかに」いざなう。

ソプラノとギターによる『炎の蔦』(熱帯の花の名)、「炎の”プシケ(生命)”に成る。カナリアの黄色いさえずりに絡み付き、”およそ一日(概日リズム)”をかき鳴らす。同志よ、足元にご注意を。地に灼けつく、発光体の開花」(註)おお、光あれ!全てのものに!

演奏者ほぼ全員での優しい『人生のモットー』の中にたゆたい、この古今東西が融け合った世界、「南蛮」という伊左治の幻視を共有する「お祭り」は終わった。

「歴史(音楽史)の終わり」と共に逆説的に生まれた「アプリオリな正しさへの信仰」と「相対主義の絶対化」、その双方に「人間」「自己」「意志」は存在しない。だが、これからの音楽に、世界に、何が起こるのかは人間の意志による。

「希望と言う名の綱渡り娘は知っている。すべての芸術家のショーは続けられねばならないことを」(『酔っぱらいと綱渡り芸人』より)。伊左治の音楽は、この綱渡りをする希望という強靭な意志に支えられているのだ。

(註)歌詞の日本語訳より(歌唱は日本語ではなく、オノマトペを多用した英語による)

関連記事:五線紙のパンセ|酔っぱらいと綱渡り芸人(I)|伊左治 直
参考:求道会館HP http://www.kyudo-kaikan.org/

(2019/01/15)