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特別寄稿|加藤綾子ヴァイオリン・リサイタル《コンプレクス。》|近藤秀秋

加藤綾子ヴァイオリン・リサイタル《コンプレクス。》

text by 近藤秀秋 (Hideaki Kondo)
Photos by ©ILA

《コンプレクス。》、それが昨春に洗足学園音大大学院を首席で卒業した新人ヴァイオリニスト・加藤綾子の初リサイタル名だった。加藤はクラシックの他に即興演奏活動を行い、またユーモアあふれるブログを書き続ける個性あるヴァイオリニスト。独特なタイトルは、そうした彼女特有のウィットであると同時に、偽装された切実な思いでもあっただろう。その偽装の内側にあったものは、彼女のみならず、西洋音楽を扱う現在の日本の若手プレイヤーの多くが潜在的に抱える問題への取り組みだったのではないか、とも感じた。

先に、演奏評を簡潔に述べると、技術などの細かい事はともかく、新人の初リサイタルとして十全すぎるほど期待に応えたパフォーマンスであったと思う。特に、プロコフィエフの『ヴァイオリン・ソナタ第1番』は、アグレッシブな彼女の長所や音楽観が良い形で反映された素晴らしい演奏だった。一方、一点だけ不満を述べるとすれば、曲によっては、伝統や聴者に気を遣い過ぎて、主張を和らげた嫌いがあったかもしれない。

ところで、《コンプレクス。》と題されたリサイタルの演奏評をクソ真面目に語る事は、落語の落ちを懇切丁寧に解説するようなもので無粋だろうし、またこのリサイタルにあらわれた実際の価値を逃しているようにも思える。リサイタルの背景や空気感は、加藤自らの描いたプログラム・ノートの序文がよくあらわしていると思うので、まずはそれを引用したい。

「音楽は良いものだと、きっと、誰もが思っている事でしょう。(中略)一方で、音楽家たち(あるいは、音楽を売る人々)の多くが、こんな嘆きを口にしています。――なぜ、俺のやっている音楽の素晴らしさが伝わらないのか。あの日あの場所で、自分が耳にした音楽の感動を、どうして理解してもらえないのか。音楽離れはどうして起きるのか。
(中略)なぜなら、今を生きる大半の人々にとって、「良いもの」も「素晴らしいもの」も、音楽である必要はないからです。そもそも良いものが必要かどうかさえ、定かではないからです。
(中略)でも、いまだに芸術や音楽を語る上で、こういった素晴らしさの類は何よりも優先されているように思います。
素晴らしいものに触れろ。良いものだけを選んで、よくよく幸せになれ。
その呪いは、演奏者、創作者たちにも等しく降りかかります。音楽を無条件に良いもの・素晴らしいものと信じることができない、そんな自分を恥じて、劣等感を抱く音楽家たち。(中略)他でもないこの私自身、そんな劣等感の塊です。

でも、音楽は音楽を愛し、楽しめる人だけのものだと、誰が決めたのでしょうか。
傷口を塗りつぶすことだけが、本当の癒しになるのでしょうか。
他でもない音楽によって、傷つく人たちを見なかったことにできるだろうか。
この音楽が、もし、いついかなる時も正しく、素晴らしく、良いものでしかなかったのなら、きっと今日まで愛されてこなかったし、そもそもこの世に生まれることすらなかった。
音楽は、ちゃんと人を傷つける事だってできる。

今回のリサイタルは、こうして形を成しました。
最後までお聴きいただければ幸いです。」

咀嚼して言えば、加藤は既存の価値地平(無論ある一部についてだろうが)に違和感を覚えており、しかしそこに対立する事にある種の困難を感じていて、だからユーモアや比喩的な表現を用いて当たりを和らげている、ように私には見える。しかし、加藤が「コンプレックス」と謙って表現している部分は、むしろその点に気づくようでなければアーティストなど到底務まらない部分ではないだろうか。もし仮に、自分の所属する文化的な枠が共有する何らかの事項に異議がある場合、それをコンプレックスと感じず、「正しいのは私であって、世界の方が間違っている」と主張したとしても、まったく不自然ではない。対立項とは、そういうものだろう。それをコンプレックスと表現するあたりに、西洋音楽を扱う現在の日本の若手プレイヤーの多くが抱える問題を感じた。それは、現代日本の若者の「社会的性格」とも関わりのある事かもしれない。

社会的性格は、アメリカの社会学者デイヴィッド・リースマンが、その著作『孤独な群衆』の中で論じたもので、個人の資質以外に、社会によって与えられる性格がある、という概念だ。1950年までの合衆国における社会的性格の例として、リースマンは伝統指向的性格、内部指向的性格、他人指向(または外部指向)的性格の3つを示し、それを社会変動との連関から説明している。うち、内部指向は自分のうちに確立された基準に従う性格、他人指向は他者の考えや判断に従う性格と説明される。同書では他人指向的性格を人口減衰期の社会の特徴としているが、その社会構造は現在の日本そのものである。加藤の示した「自分の方が折れる」態度の部分は、社会強制的な性格であって、個人の範疇だけで処理し切れる問題ではない。一方、加藤の主張があらわれた様々な部分(たとえば、即興演奏という自発的な演奏行為、加藤が所属していた音楽社会で自明とされていただろう価値への異議申し立て、そしてそれに準拠したかに見えたいくつかの演奏、先に引用した序文の内容、いわゆる「クラシック的な振る舞い」から外れたドシドシと歩いて平然と佇む舞台上の所作など)は、内部指向的であり、加藤そのものに見える。しかし、なぜ内部指向が優らないのか。それは、現在の日本が、かつて以上に他人指向的性格を強いる性格になっており、日本のクラシック界もその例外ではない、という事ではないだろうか。その構造は、社会を(少なくとも短期的には)安定させる一方、進化すべきいくつかの方向を閉ざす結果に繋がっているように見える。推測にすぎないが、加藤のパフォーマンスの内で、私が「伝統や聴者に気を遣い過ぎて、主張を和らげた嫌いがあった」ように見えた背景には、そうした面があったのではないか。

この日、加藤が行ったリサイタルは、日本のクラシック界になくてはならない、しかし為される機会の少ない「文化的止揚」が、暗黙のテーマとして成立していたように感じた。分かりやすい例が、即興演奏である。即興演奏という選択肢は、伝統指向でも他人指向でもなく、日本人プレイヤーが「最もそうあるべきもの」を追及するのであれば、選ばれてしかるべき項目のひとつであり、それどころか一度は通過しないと不自然なものですらあるのではなかろうか。それは、外文化に対峙させる自文化が未明の場合には、自らをよりどころとするしかないという意味でもある。採点競技におけるアスリートであれば話はまた違うだろうが、これは音楽だ。偉大な価値体系を具象する者の必要と同等に、違う価値を創造する者もまた求められている分野なのではないだろうか。

加藤の演奏の方位は、おおむねプログラム序文から逸れてはいなかったと思う。しかし、それが徹せられていたかというと、踏み込めた部分もあったが、譲った部分もあったように感じた。徹しきれなかったという事だ。新人の初リサイタルなのだから、それで当たり前である。誤解を受けないようにもう一度言っておくと、デビュー・リサイタルとして十全と言えるほどの見事な演奏であった。その上で、加藤が辿りついた見解「音楽は、ちゃんと人を傷つける事だってできる」に比べると、気を遣い過ぎて、抵触しない程度に普通にしすぎたように感じた。即興演奏があくまで「即興演奏の紹介」程度に留まった事も、バッハの演奏も、そのあらわれだったように思う。

別の言い方をすると、徹すれば更に飛躍するという、大きな可能性を感じた。音楽に出来る事以上の事は音楽には出来ないという意味で、たしかに音楽至上主義は違う。しかし逆に言えば、音楽に出来ることは音楽で出来、それどころか音楽こそがもっともふさわしい領域もあるのであって、音楽における成果を果たすのに気遣いや制限を加える必要はないし、気遣いや制限を加えている場合でもない。
演奏、発言、振る舞いなどを見るにつけ、加藤に向いているのは、アスリートでも万能プレイヤーでも翻訳者でもなく、演奏上ではっきりと主張する事である気がした。すでに気づきがあり、またそれを表明した以上は、演奏でも普通に主張して良いのではないかと思う。演奏上であるにせよないにせよ、信じるものを徹底して出し切る事。枠に制限される必要も、枠を制限する必要もなく、音以外の活動も含め、すべてでトータルである。私が若いころもすでに他人指向型の社会性格が強い状況であったが、現在の若手世代は、それ以上に他人指向の縛りがきつく、より主張しにくい世代であるように見える。ジャズなどにも似た事を感じるが、忖度して控えるのではなく、主張の数を増やしていく方が、シーンは活性化するだろう。文化グローバリゼーションという観点からすると、他文化の認識だけでなく、自文化の認識と保持、また他文化と自文化の止揚は、「あっていい」ではなく、無いようではまずい。私のような部外者から眺めるクラシックの演奏会は、作曲界に比べ、うしろのふたつが弱い。シンプルに、「異文化の作品を取りあげる事になる日本のプレイヤー」という状況での態度のあり方が一様で、バランスが悪い。無論そこに複雑な原因がある事は察しがつくが、しかし発し手が取り下げたら、そこまでだ。そうしたシーンの中で、加藤は、(作曲家ではなく)プレイヤー側からのメインストリームへの対立項の提示や、西洋的価値観との止揚を行なえるだけの技量と思弁的根拠を有して飛び込んできた、得難い個性のひとりと感じた。

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2019年1月25日 美竹清花サロン(東京)
<演奏>
加藤綾子:ヴァイオリン
田中麻紀:ピアノ
<曲目>
B.バルトーク:ルーマニア民族舞曲
S.プロコフィエフ:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ 第1番 へ短調 作品80
J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ 第1番 ト短調 BWV1001
加藤綾子:無伴奏ヴァイオリンによる即興演奏
(アンコール)
プロコフィエフ/ハイフェッツ:「3つのオレンジの恋」より行進曲
バッハ/グノー:アヴェ・マリア

(2019/2/15)

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近藤秀秋 (Hideaki Kondo )
作曲、ギター/琵琶演奏。越境的なコンテンポラリー作品を中心に手掛ける。他にプロデューサー/ディレクター、録音エンジニア、執筆活動。アーティストとしては自己名義録音 『アジール』(PSF Records)のほか、リーダープロジェクトExperimental improvisers’ association of Japan『avant- garde』などを発表。執筆活動としては、書籍『音楽の原理』(アルテスパブリッシング)など。