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自選<ベスト・レビュー> &<ベスト・コラム>(2019年)

自選<ベスト・レビュー>       →自選<ベスト・コラム>

本誌 2018/12/15 号〜2019/11/15 号掲載のレビューよりレギュラー執筆陣中9名が自選1作を挙げたものである。

大河内文恵(Fumie Okouchi)
ロナルド・ブラウティハム〜ワルトシュタインを弾く
2019/06/15号 vol.45

自選ベストを出せと言われて毎年悩む。いい演奏会はたくさんあった。
けれど読み返してみて、それを過不足なく伝えられているか。否。修行の足りなさを実感する作業は正直つらい。
それは反省材料にするとして、今回は「よく書けた」ものではなく、「書いていて楽しかった」ベストを挙げることにする。

◆丘山万里子(Mariko Okayama)
ヴィジョン弦楽四重奏団 transit vol.12
Vision String Quartet transit vol.12
2019/11/15号 vol.50

2018年10月フォーレ四重奏団公開マスタークラスで受けた衝撃「日本の音楽教育はまだこの程度か」。以降注意して聴き続けた内外の室内楽公演で「これだ!」という一つの答えを見つけた気がした。まず変わらねばならないのは聴き手の私たち、既成の価値観・評価の鎧を脱ぐことから、と思わせてくれた若者たちとのワクワク出会いを活写。

◆齋藤俊夫(Toshio Saito)
俳優座劇場 オペラシアターこんにゃく座 オペラ『遠野物語』
2019/03/15号 vol.42

批評とは演奏会・企画の良し悪しの評価、作品・演奏がどういうものであったか、ということを書くことが基本ではあるものの、それらの奥にある思想を読み解き、さらにそれらに接したときの感動を表現した1つの文章(おこがましくも言うならば1つの文学)であるべきだと思います。この批評はオペラの素晴らしさと同時にオペラとその思想に接したときの感動が「私の文章」として最も良く表現できたものとして、1年間のベストレビューとして挙げるものです。

◆佐野旭司(Akitsugu Sano)
エリアフ・インバル〜ベルリン・コンツェルトハウス管弦楽団
Triphony Hall Great Orchestra Series
Eliahu Inbal conducts Berlin Konzerthaus Orchestra
2019/8/15号 vol.47

本公演ではインバルの独自のアプローチにより、特にマーラーの演奏において従来の作品像とは一味違った曲作りがなされていた。その意味では、非常に興味深く意義のある演奏だったといえよう。そうしたこともあり、本稿では演奏の良し悪しについて述べるにとどまらず、演奏家が作品とどう向き合うか、という問題にまで言及することができた。

◆谷口昭弘(Akihiro Taniguchi)
ビヨンド・ザ・ボーダー音楽祭2019
Beyond the Border Music Festival 2019 EXTENDED Special Concert
~ Exceeding, Intersecting, Listening ~
2019/12/15号 vol.51

クラシック音楽が自分の主なテリトリーだと思いつつ、個人的興味関心として、非西洋音楽や20世紀以降の音楽にも、ふらふらと魅了されてしまう。そんな自分の音楽評論のあり方としては、深い哲学や理論的な枠組みを援用できる能力がないというところもあり、ただひたすら目の前で展開される音のあり方を言葉に綴っていくだけである。ただそれ自体を楽しんでいるということを、特に新しい音楽に感ずる。だから今年も、既成の音楽の境界を外してくれるコンサートを自分の記録として留めておきたい。

◆藤堂清(Kiyoshi Tohdoh)
イアン・ボストリッジ in Japan 2019
2019/02/15号 vol.41

ボストリッジという演奏家をある程度の期間聴いてきて、その長所も弱点も分かっているつもりであった。声楽家という、体が楽器という制約のある中で、体調などが大きく影響することもあるだろう。2019年の彼の来日コンサートでは、共演するピアニストとの関係が演奏の完成度に影響を及ぼした。これまでの彼の演奏も思い起こし感じたところを、具体例を挙げて述べた。

◆西村紗知(Sachi Nisimura)
〈エスポワール シリーズ 12〉嘉目真木子(ソプラノ) Vol.1―日本歌曲
2019/05/15号 vol. 44

私の批評は「対象への庇護欲」、「自らの信条」、いくばくかの「弁別能力」、この3つが動いて出来ていると思っている。今回改めて自分が投稿したものを読み返して、その3つの要素が一番うまく動いているように思えたものを選出した。元々このレビューは「私が伴奏者だったらこのプログラムはちょっときつい、断りたい」という率直すぎてどうしようもない感想から展開させたもので、展開のための道具立てとしてアドルノのテクスト由来の概念を援用している。どうやら、「私なら嫌だ」を理論的枠組みに照らし合わせるというのが、私にとって一番苦労なく書けるパターンらしい。

◆能登原由美(Yumi Notohara)
読売交響楽団第592回定期演奏会
Yomiuri Nippon Symphony Orchestra Subscription Concert No. 592
2019/11/15号 vol.50

演奏批評を書く上では、それを言葉で表現するスキルも重要でしょうが、まずはその演奏から何を聴き取るのかが問われるのではないかと思います。その際、演奏のみならず、それを通して作品の本質に迫れるような評者(聴者)でありたい…。決して満足できる評ではありませんが、この文章を書いた時、その「何を聴き取るか」についておぼろげながら見えてきたように思いました。

◆藤原聡(Satoshi Fujiwara)
ローザス Rosas
『至上の愛』『我ら人生のただ中にあって/バッハ無伴奏チェロ組曲』
2019/06/15号 vol.45

ダンスと音楽は似ている。具体的な運動性のもとに構成されているが、それは言語化できない何らかの抽象的な思考やら想念、思想やらの反映である。その「もやもや」感(否定的な語ではない)に書き手が共振しつつ、ある言葉としてかたちにする営為。それが幾分かは上手くいったのが本稿のような気がする。

 

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自選<ベスト・コラム>

本誌 2018/12/15 号〜2019/11/15 号掲載のコラムよりレギュラー執筆陣3名が自選1作を挙げたものである。

◆丘山万里子(Mariko Okayama)
不思議な響き〜庭の梅とベルチャ弦楽四重奏団〜
2019/02/15号 vol.41

昨年末美空ひばりのAI制作過程TVを見て不気味さに戦慄した。東大×国立音大によるアンドロイド・オペラ上演(2020/1/11)など、音楽の未来(人類の未来)について考えざるを得ない日々。この稿は自分の生身の感触・感覚を頼りの享受・思惟をそのまま記述、その偏向への逡巡ゆえ、多様な聴取の投稿を呼びかけてみた。反応はなかった。

◆林喜代種(Kiyotane Hayashi)
ネーメ・ヤルヴィ(指揮者)
2019/06/15号

1937年エストニアに生まれのネーメ・ヤルヴィが3年振りにNHK交響楽団を指揮した折に撮影。82歳を迎えますます老練であった。彼が2011年11月、N響と定期演奏会で初共演の折、たまたまパリ管の指揮者として来日していた息子パーヴォ(現在N響首席指揮者)夫妻が公演を聴きに来ており、公演後NHKホール楽屋で親子の対面をした際の貴重な1枚を添えた。

◆松浦茂長(Shigenaga Matsuura)
グレタ・トゥンベリ 深き淵からの怒り
Greta Thunberg Fury from the Abyss
2019/11/15号 vol.50

グレタさんの国連演説を聞いて、涙が止まらなかった。彼女のメッセージの重みを十分伝えられたとは思わないが、読み返すと気恥ずかしくなるようなボルテージの高い文章になってしまった。パリから帰り、すぐ蓼科の山荘にこもって、森の空気を吸いながら書いたせいかも知れない。京都会議を取材したときの高揚感からわずか22年で絶望的な現在へ、人類の知恵の衰退にぞっとさせられる。