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札幌交響楽団 第604回定期演奏会|藤原聡

札幌交響楽団 第604回定期演奏会

2017年10月27日、28日  札幌コンサートホールKitara大ホール
Reviewd by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
写真提供:札幌交響楽団

<演奏>
指揮:ラドミル・エリシュカ
コンサートマスター:田島高宏

<曲目>
スメタナ:歌劇『売られた花嫁』序曲
ドヴォルジャーク:チェコ組曲 ニ長調 op.39 B.93
リムスキー=コルサコフ:交響組曲『シェエラザード』

 

日本全国からファンがKitaraに集まっていたと思う。2006年の初指揮以来札幌交響楽団(札響)と深い絆で結ばれたラドミル・エリシュカが、今公演でひとまずその関係にピリオドを打つ。エリシュカは前回来日(3月)の帰国後に体調を崩し、医師より今後は体に負担の掛かる飛行機での長旅を控えるように言い渡されたという。しかし、そのまま札幌交響楽団及び札幌の聴衆とお別れするのがしのびなく、当初より決定していたこの10月公演をキャンセルせず、これに向けて体調回復に努め最後としたい、という意思が表明された。つまり、これが日本の聴衆の前にエリシュカが姿を現す最後の機会になる可能性が極めて高い、という事実があらかじめ周知されていたということであり、この指揮者の演奏に魅せられているファンが札幌に集結するのも全く自然な道理である(筆者も実際多くの知人に会場で遭遇した!)。ちなみにコンサート当日にはホワイエでエリシュカの過去札響客演時における写真展が開催され、さらにはエリシュカへのメッセージボードも設置されていた。

ところで、筆者が初めてエリシュカの実演に接したのは札響との演奏ではなく、2014年10月に東京芸術劇場において読売日本交響楽団を指揮したコンサートであった。かなり遅い。2004年に初来日し、初めて札響を振った2006年以前にも東京フィルや名古屋フィルを振り、その後もN響や都響などに客演していたのだから、聴こうと思えば聴くことは容易に出来たはずだ。しかし、なぜかそのコンサートには足を運ばなかった(特段明確な理由もない)。先述した2014年の読響とのコンサートを聴く気になったのは、既に札響との素晴らしい実演の数々の評判が伝わって来ていたこと、そしてそれを受けて彼らのCDを聴くに及び、その演奏が噂に違わず実に見事であったこと、が理由だろうか。であるから、これはエリシュカの実演を是非とも聴かねばなるまい、と。そこで接した読響との実演があまりに素晴らしく打ちのめされ、これほど味わい深い『新世界より』はそう耳にすることもなかろう、というほどのものであったのだ。その後には2015年6月に初の「Kitara参り」においてエリシュカ&札響待望の実演に接し、続いて2016年3月のサントリーホール公演、2017年の同じく3月における東京芸術劇場公演、そしてこの公演だ。つまり、それほど実演を聴いてはいないのである。にも関わらず今回遠路札幌まで何の躊躇もなく飛んだのは、当たり前だがそのかけがえのない演奏にはそれだけの価値があり過ぎるほどにある、と分かっていたからで、それが先述のごとく最後かも知れない、ならなおさらだ。恐らく、多くのファンの想いも同様のものに違いあるまい。

前置きがやたらと長くなった。1曲目は読響公演でも既に実演に接していた『売られた花嫁』序曲。確かな足取りでステージに登場したエリシュカの姿に衰えは微塵も感じられないが、鋭い打点と呼吸音によって開始されたその演奏も極めて凝縮された厳格なものだ。こんなことはファンには当たり前の事実であるが、ともするとそうイメージされかねない「ローカルで鄙びた味わいが身上の地味な名匠」という形容詞は当たっておらず、その音楽性は極めてモダンな造形によるスタイリッシュさを基調とし――しかし小綺麗に表面を整えるだけの演奏とは当然ながら次元がまるで違い、実に豪快で野太く彫りが深い――そこにエリシュカ的な温かみある「歌」が絶妙のバランスでミックスされている。ここでもその緊張度の高い響きが実に快く、これがエリシュカだと心の中で独り言ちる。また、ヴィオラを筆頭として札響の透明かつしっとりとした味わいを湛えた弦楽器の響きがとりわけ美しく、冒頭部分はまさに至福。サントリーホールで聴く札響とはまた違い、明らかに「Kitaraでの札響の響き」だ。演奏者とホールの幸せな融合。

2曲目は『チェコ組曲』。特別なことは何もしていないのにオケからは馥郁たる香りが匂い立ち、大づかみなようでよく聴くと繊細な歌に満ち、そしてポルカやフリアントでは俄然リズムに生彩が生まれる。恐らく、比較的単純な曲ゆえ指揮者が凡庸だと単に観光絵葉書的で曖昧なチェコ情緒を振りまくだけに終わりそうな曲なのだが、エリシュカが指揮をするともう深みが違う。指揮者の凄さとオケとのあまりに幸福な一体化。

そして休憩を挟んで『シェエラザード』(ちなみに、当初予定ではベートーヴェンの『英雄』が演奏されるはずだったのだがエリシュカの強い希望によって変更となった。札響を初めて指揮したコンサートでのメイン曲目がこれであったのだ)。結論から書けば、これほど俗っぽくなく格調高い『シェエラザード』を実演、録音含め聴いたことがない。シャーリアール王の残虐さを表す冒頭からしてその響きは抑え気味であり、通例は威圧的なイメージのあるこの箇所が不思議な静謐さを感じさせる。ハープソロは反対にかなり大きめの音量であり、この対比がいきなり新鮮、ここだけでもこの演奏が凡百のものとは違うと予感させるに十分だが、王の主題から派生した海の主題とその伴奏形は極めて注意深く演奏され、この主題が繰り返されて次第にうねり、楽章のクライマックスに向けて「成長」していく様がつぶさに実感できる。心持ち間(ま)を空けて開始された第2楽章では(この演奏では全楽章とも完全なアタッカではなく少しの間が空けられた)、技術的に危うい瞬間もあったとは言え冒頭ファゴットとオーボエソロが実に雄弁に振る舞い、やや強めに演奏されたコントラバスのドローンと絶妙なバランスを生み出す。第1ヴァイオリンによる主題提示はいささかの性急さを感じさせたが(但し2日目はより落ち着いた演奏となっていた)、中間部開始を告げるトロンボーンの響きは抑えられ(この演奏では全体にトロンボーンの音量を相当抑え目に設定しており、それが印象に大きく作用しているようだ)、ad libitumの木管ソロを支える弦楽器群のピツィカートは逆に相当大きく入ってデクレッシェンドする。第1楽章もだが、このようなデュナーミクの扱いが実に効果的であり、聴き慣れたこの曲に新鮮さを注入している。『若き王子と王女』の清潔かつほのかな官能味を湛えた歌、中間部の細やかな楽器の動きの整理の巧みさには聴き惚れるが、遂にやって来た最終楽章、しかしエリシュカはここでもむやみに煽らない。落ち着いた冒頭からの遅めのテンポ維持と弦楽器主体の音響バランス。しかし、コーダに至って今までの抑制を解き放した「破滅」を描き出して戦慄。この溜めに溜めた抑制と開放の設計が凄いが、表面的な派手さと演奏効果を狙った演奏ならままあるだろうが、繰り返すようだがここでの「交響曲」のような演奏――様々な主題の再登場や変容の効果、コーダでは冒頭楽章の海の主題が回帰することが他の演奏より明らかに明晰に意識付けられる――は、この曲のグレードを別次元にまで引き上げたとすら言えるのではないか。聴き終えても実に「ジワジワ来る」演奏で、『シェエラザード』でこういう体験も記憶にない。尚、両日の演奏を比較すると、総合的に27日は明らかに堅さがあり、28日はより自在で表現の幅が広がっていたと思われてさらに感銘深かった。

それにしても、『シェエラザード』という曲は大雑把に言えば最初と最後が繋がる円環構造のようになっていると思うが、エリシュカの札響初登場曲がこの『シェエラザード』であり、そしてラストコンサートもまた『シェエラザード』。『英雄』からこの曲にプログラム変更をした指揮者がその内的符合まで意識していたかは分からないが、となればエリシュカ自身もまた…?

終演後。聴衆の多くがスタンディング・オヴェイションでエリシュカを称え、27日は田島コンマスがひざまずいた大げさな仕草で花束を渡しホール中の笑みを誘う(尚、この2回のコンサートは32年8ヶ月に渡って札響のホルン奏者を務めた菅野猛の最後の出演でもあり、ここでも花束が贈呈されて大きな拍手を浴びていた)。当然予想はされたが28日の「本当のラストコンサート」ではその歓呼は一際大きい。花束を贈呈した副コンマス席の大平まゆみを抱擁するエリシュカ、泣いている楽員が何人も見受けられる。繰り返されるカーテンコール、パート毎にオケを称える指揮者、メンバー全員の起立を促しても立とうとせず大きな拍手を何度も指揮者に浴びせる楽員たち。オケがステージからはけた後のソロ・カーテンコールに登場したエリシュカは目を何度も押さえて泣いており、四方の客席を名残惜しそうに見渡しながらかなりの時間ステージに佇んでいたが、遂に袖に消えてしまった。エリシュカと札響の再度の邂逅、訪れるものと信じたい。