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ルネサンスと鳩時計——東京人から見たスイス|女と「女傑」(2) 調和と例外|秋元陽平

女と「女傑」⑵ Woman and superwoman II
調和と例外 Harmony and exception

Text and Photo by 秋元陽平(Yohei Akimoto)

スタール夫人の思考方法をつらぬくこのような相補性への傾向は、『コリンヌ』の同名ヒロインの造形のうちにも見出される。前稿でコリンヌは古典的な女性像と革新的な女性像のある種の「おいしいとこ取り」だと書いたが、これもまた相補性へのこだわりからだろう。たとえば彼女は、英国を中心に隆盛した書簡体小説を、男女それぞれの利点を活かした芸術形態だと考えている。長い手紙のやりとりは女性的な感受性が心のおもむくまま、感情のままに自らを解き放って考えることを可能にし、男性的な雄弁は、その中でたしかな理性によって自らを照らし出す−−現代を生きるわたしたちからすればこれも充分役割固定的、二分論的な物言いということになるが、興味深いのは、スタール夫人が、分極している二つの性質が、よく分析すれば互いに補い合うべきものであることがわかる、と随所で主張しているところだ。キリスト教徒は北方の蛮族を征服したのではなく、その教化の過程で「その性質を変えることなく」(と彼女はわざわざ但し書きする)彼らの憂鬱質な文化を温存したのだとか、あるいは中世の「暗黒」は、ルネサンスによって単に啓蒙されたのではなく、むしろ僧院の中で繰り広げられた抽象的議論こそがルネサンスに哲学的基盤を与えたのだ、などなど・・・・・・。彼女の『文学論』をはぐくんだのは、大革命からナポレオンの戴冠にいたる十数年であり、それは殺戮をともなうイデオロギー闘争の十数年である。彼女はそのただ中でもたしかに、こうした分析が、切り捨てられがちなものの真の価値を見出すことに役立つと考えていたのだ。

しかしこの相補性、寛容へと導くねばりづよい思考は、女性に押しつけられたものを引き受けつつ、男性の領分もカバーするという意味で、彼女のような女性に倍の労力を要求するものである。スタール夫人じしん、そのような「女傑」扱いをいわば引き受け、対立を検討し抱き留める知的キャパシティを持つこと、まさにそのことによって人一倍苦しんだひとであったように思われる。小説のヒロイン、コリンヌが、才知と名誉に恵まれた彼女が傷つきうるということを理解しない恋人にこう訴えるシーンがある。「やめてくださいませ、あなたは私のことをわかっていらっしゃらない。わたしがもっている能力のなかでもっとも優れているのは、苦しむ能力なのですよ」啓蒙の理想にあっては、分析的思考は、党派性を越えて、世界の総体としての調和、人類の漸進的な進歩の可能性を示してはくれる。しかしそれは人類の「総体」において帳尻が合う話であって、たとえば性差のようなハンデを背負って忍耐強く普遍性を説こうと努めた個人は、生きているうちにその普遍的思考によって果たして充分に希望を持つことができ、それによって報われるのだろうか?「女傑」たらざるを得ず、そのためにみずからの愛を犠牲にせざるを得ないコリンヌはむしろこのように叫ぶ。「わたしは宇宙の秩序のなかの例外なのですね、みんなは幸せになれる、そしてわたしはこの恐ろしい、苦しむ力に殺されるの、わたしたったひとりだけのこの感じ方に。ああ神様!」スタール夫人自身はここで、女性の苦しみというよりは、コリンヌという「天才」個人に固有の苦しみとして描いている。だがそれは、彼女にとって小説の可能性は、あらゆる社会的背景を詳述しながらも、最終的にたった一人の苦しみに降りていくことにあるからだ。その親密性こそが読者のシンパシーを逆説的に支えるのだから。

スイス東部のアッペンツェルは、ジュラやヴァレにあるような険しい岸壁やそびえる連峰なども見えず、なだらかに隆起する牧草地が延々と連なるのどかな田園地帯である。わたしと妻もまた、ジュネーヴから電車で数時間かけて、ある年の6月にここへ旅をしたことがある。当時国鉄のプラットフォームのいたるところで見られた、いかめしい顔の農夫のおじいさんが三人、立てた人差し指を口に押し当てた「スイスの最も玄妙なる秘密:アッペンツェル」という観光ポスターに惹かれたというわけではない。ただスイスを端から端まで旅行してみたかったのだ。「なんでそんなところへ?」とはスイス人の友人たちに口々に怪訝そうに言われた。だが来てみるとどうだろう、風景の美しさと物珍しさ、空気のおいしさにおいて、選択肢が多すぎて悩ましいスイスの中でも第一級の場所だ!市庁舎付近に位置する、アラベスクの飾り扉も美しい青を基調としたメルヒェンチックなホテルの窓から、背景に長閑な緑の描くなだらかな曲線と、いたるところ赤い花々に彩られた広場を、初夏の鮮やかなその色彩を眺めたのを覚えている。
ところで、この広場には、手を挙げる男の彫像がたたずんでいる。ここでは、村民が挙手で投票する、その起源を中世まで遡ることのできる人民投票「ランツゲマインデ(青空議会)」が連綿と定期開催されているのだが、じつは長年女性に参政権が与えられていなかった。それどころか、1990年にあらためて女性の参政権が否決され、最高裁に持ち込まれたあげくその決議が取り消しとなったことがよく知られている。Swissinfoによる別記事にもあるように、妻が夫に投票先を指示できるので実態としてはうまくやっている、長年の伝統をむやみに変えるべきではないと女性参政権に反対した女性も少なくなかったという。「広場が狭すぎる」という理由が出たという話も聞いた。
この話をさまざまなスイス人学生としたが、これは切り取ると普遍的な人権問題に違いないがいかなる衝突にも風土性というものがあり、この一件はむしろ「変えられずに済むならなにひとつ変えたくない」というスイス的固陋の一般精神に由来するのだ、とわたしに説明するひとは男女問わず多く、あるいは単に「へんぴな田舎」だから遅れているのだ、と切って捨てる(ただし自らもそうした「田舎」出身の)ひともいた。なるほどさきの記事にあるように、ひとたび参政権が認められたのちは、今度は両性の参加という「決定事項」をまるで古来の伝統であったかのように遵守し、こんどは新たな革新勢力−−「この挙手による選挙は民主制の匿名性原則に違反するのではないか」という国内外からの批判−−に対して、この世にも珍しい政治慣習を守り抜こうという意志が両性の投票者のあいだに生まれているという。スタール夫人ならばここに、抵抗する力と革新する力の調和を見出すだろう。だが、彼女なら同時に、その調和のなかからふたたび「例外」としてはじきだされた人について、小説を書こうするかもしれない。それは今書かれるとすれば、どのような小説になるのだろう?

(2021/4/15)

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秋元陽平(Yohei Akimoto)
東京大学仏文科卒、同大学院修士課程修了。在学中に東大総長賞(学業)、柴田南雄音楽評論本賞などを受賞。研究対象は19世紀初頭のフランス語圏における文学・哲学・医学。現在ジュネーヴ大学博士課程在学中。