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Pick Up (19/9/15)|あいちトリエンナーレ2019|丘山万里子

あいちトリエンナーレ
《情の時代》
AICHI TRIENNALE 2019
《Taming Y/Our Passion》

Text & Photos by 丘山万里子( Mariko Okayama)

『表現の不自由展・その後』に直行(9/3)。閉鎖された扉の前に説明板が立つ。隣の部屋CIR(調査報道センター/米)も辞退により中止、抗議声明がそれぞれに貼られている。

欠落、を確認の上で、展示に沿って巡回を始めるのが良いかどうかはわからぬ。だが、私はそうした。
欠落はそれにとどまらず、「在るもの」の背後にも忍び入り、なお、見たかった展示がことごとく辞退や抗議により閉ざされ(どれにも抗議声明がある)、あるいは変更しているのを眼前にする。そのままそこに「いること」にした作品たちもまた、声ならぬ声をさざめかせているのだ。
それらの間を、立ち止まり、座り込み、壁にもたれ、私はただ往還した。

以下、揺さぶられた作品を列挙する。

『不自由』と同階の『トゥモローランド』袁廣鳴(ユェン・グァンミン)はノイシュヴァンシュタイン風の城が立つ遊園地が突然爆破され吹っ飛んで行く様の映像。カラフルな楽園風景が凄まじい爆発音と轟音に破壊されてゆく画像がスローに流れ続ける。数人が座って見入っており、私も隅っこに。入室前に、大音響がするので気をつけろ、の注意書きがある。「日常と隣り合わせにある戦争」(以下カッコ内は展示の解説だが本人によるものではない)とのこと。

『原子力の時計』スチュアート・リングホルトは大時計の下に地球を含む星々が小さな球体になって散らばる。「今から約10億年先まで時を刻みます。10億年後には一日が34時間になるほどにまで地球の自転速度が低下していると予測されています。」時空のスケール、かつそれを生み出す人間の意識に刮目。

『進化の衰退』パンクロック・スゥラップ(マレーシアのアーティスト集団)は木版画の技法で刷られた4版構成、昆虫の世界観を展示。「都市化の始まり、次が金融や経済など貨幣経済が導入された時期、そして消費社会、情報化社会、政治腐敗や戦争、環境破壊といった状況を経て、最後にこの世界の限りある資源を守り、人生で本当に必要なものは何かを問いかける、人類に共通するさまざまな課題が描かれています。」進化論はどこから来た?

『10150126』タニア・ブルゲラは入室前に手に押されるスタンプの数が表示。5桁の数字は、2019年に国外脱出に成功した難民の数と脱出できず死亡した難民の数の合計。下3桁が3回更新され終了、つまり、展示中止により数はそこで止まっている。

ドアの向こうにぼうっとした光がかすかに見える。「メンソールを充満させたこの室内は、地球規模の問題に関する数字を見せられても感情を揺さぶられない人々を、無理やり泣かせるために設計されました。」涙の誘発による自覚なき感情の発現。「 “強制的な共感”を呼び起こし、客観的なデータと現実の感情を結びつけるよう試みているのです」。

このフロア、全17展示中、閉鎖・変更は7。

翌日(9/4)、10階へ。

『LA FIESTA 』レジーナ・ホセ・ガリンドも中止変更だが「名古屋在住のラテンのルーツを持つ外国人の労働者に対し参加を呼びかけた、作家主催のパーティーの様子を記録」そのパーティーの名残が床に散らばる。「愛知県には外国籍の人が多く暮らしていますが、仕事のために移住してきた人や外国籍の両親の元に生まれて日本で育った人、日本人と結婚して定住している人などその理由は一様ではありません。」「ドキュメント映像は、労働と文化の価値を交換すること、また様々な文化的アイデンティティやその固定観念について、私たちに問いかけています。」

『孤独のボキャブラリー』ウーゴ・ロンディノーネ。「一人の人間が、人生のとある一日、その24時間で繰り返し行っている家の中での孤独な振る舞い」をピエロに。多くの人が気に入ったピエロを見つけてはシゲシゲ覗き込み、寄り添う。私も一人のピエロになってじっと座り込んでみたが・・・。

『Decoy-walking』村山悟郎。ロボットの足がガシャガシャ動いている。「人間の歩き方の特徴をコンピューターによって認識する歩容認証という技術を応用した作品」「入口に置かれる複数のモニターには、会場で行われたパフォーマンスの記録や、歩容認証システムが歩行者のどんな特徴を認識しているかのグラフなどが示されていますーーー周囲に置かれている三角形のミラーや銀紙は、レーダーを増幅または拡散して、索敵を欺くための軍事技術で、これらは総称してデコイと呼ばれています」。音のパターンを生み、崩すドラムは軍楽隊からの着想とのこと。「パターンを認識するためのテクノロジーと、これらに対峙する人間の存在」。先端は常に軍事技術だ。

『Stranger Visions, Dublin: Sample 6』ヘザー・デューイ=ハグボーグ。不気味だ。 NY街頭で収集したゴミから抽出したDNAサンプルに基き3Dプリントされたマスクがじっと私を見る。下のサンプルボックスには、拾った煙草の吸い殻、チューインガムなどの収集日、場所などの写真。もう一つ『Invisible』の「”Erase”スプレーは、公共の場所にあるDNAの99.5%を消去するものです。一方で”Replace”スプレーは生物の体内に存在する化学物質をノイズで覆い隠すものです。驚くべきことに、これは機能として完成された購入可能な商品なのです。この作品は、近い将来オンラインで個人情報を収集するのと同じくらい、遺伝子情報を収集することが一般的になるだろうことを示唆しています。」ひたすら恐怖。

『モダンファート創刊号 特集 没入感とアート あるいはプロジェクションマッピングへの異常な愛情』伊藤ガビン。入場は1回20人までゆえ列に並ぶ。上映は23分くらい。最初に「気分が悪くなったり、身体に異変が起きたりする危険があるからその場合はすぐに退室するよう」とのメッセージが。確かにマッピングに全身犯され、私は目眩でへなへな。の一方、最後まで居たい好奇心大で隅に縮こまり見たくないもの、聞きたくないものには耳目を塞ぐ。音楽に合わせて踊ったりする若者横目に、だ。たまたま視覚障害の生徒たちとともに入室したのだが、身体で感じる回転閃光円筒装置発動時には「目を閉じてください」の指示あり。なるほど。金魚やNY銭湯などかなり笑える人気室。

『ラストワーズ/タイプトレース』dividual inc.制作(メディアアーティスト遠藤拓己、情報学研究者ドミニク・チェン、クリエイター山本興)。中央に1台のパソコン。人生の最後の10分に残す遺言を打ち込んでゆくトレース画面が壁の24のモニターに映る。「誰かが慰めてくれるコミュニティサービス<リグレト>、フォトメッセンジャーアプリの<Picsee>」開発・運営企業らしく、遺言だけでない応答も打ち込まれる。あなたもどうぞって、このパソコンで?でもキーボード、パタパタ動いてるし。みんな結構熱心に遺言その他を読んでいる。

全17展示中、閉鎖・変更は3。

欠落。『表現の不自由展・その後』が欠けたこと、これらの作品群の中に居ることを剥奪されたこと。それはダメだろう。そういうことをしてはいけないだろう。
全展示のおよそ3分の1がこれに抗議、自ら表現を閉ざし、あるいは一部変更した。
残ったみんなが、それぞれの声を上げている。

現代美術、映像ブログラム、パフォーミングアーツ、音楽プログラムなど多岐にわたるトリエンナーレ作品の愛知県美術館の現代美術しか私は見ていないが、それでも、それらの作品全てに「問いかけ」があった。「あなたはどう思う?」「君はどう考える?」。
それこそが、「表現の場」の機能として死守されねばならない「自由」ではないか。
『表現の不自由展・その後』もまた、一つの「問いかけ」であり一つの「問いかけ」でしかなく、これら作品はみな等価だ。
表現の場は、考える場であり、それぞれの「自由」の行き交う場だ。
それは、奪われてはならぬものだ、と改めて思う。

今回のトリエンナーレのテーマは《情の時代》。
芸術監督津田大介のコンセプトは以下に記載されている。
https://aichitriennale.jp/about/concept.html
「政治は可能性の芸術である」というビスマルクの言葉を冒頭に掲げ「政治は“民衆の納得と同意を獲得する技芸”と定義されるが、それは語源的に“アート”が元々“政治を対象に含む一群の学芸や技芸”として理解されていたところが大きい。」云々。
ここから、世界共通の悩み(「テロの頻発、国内労働者の雇用削減、治安や生活苦への不安。欧米では難民や移民への忌避感」)に触れ、さらに情報により引き起こされる「感情」の増殖への警鐘とともに、「情によって情を飼いならす(tameする)技(ars)を身につけなければならない。」という主張へ。
権力やメディア批判を挟みつつ「ナショナリズムとグローバリズム、エリート主義と反知性主義、普遍主義と相対主義、理想主義と現実主義、都市と地方、高齢者と若者––––われわれが見失ったアート本来の領域を取り戻す舞台は整った。」で締めくくる。
にしても“アート”に疎い政治家の口出しを誘発するような冒頭部は私には不可解だ。
「情」が「情」を扇動・排除する「情理」の炙り出しを意図したならしたたかであるが。

『表現の不自由展・その後』にあった『平和の少女像』や『遠近を抱えて』『福島サウンドスケープ』など16点を見ることはできなかったが、「欠落」という表現は残った。
見ることを奪った人々、奪われた人々、そこを行き交う人々が残す無数の痕跡が(手のスタンプのカウント停止の意味を想起して欲しい)、そこにははっきりと刻まれており、これからもそれは増え続ける。
私はこの場を多くの人々が訪れることを願う。様々な声と問いかけに真摯に耳を傾け、一人一人が考えて欲しいと願う。会期は10月14日まで。
中止された展示は、以下HPに記載がある。
https://censorship.social/artists/

地下の美術館入り口には大きな幕が垂れている。
ピア・カミル『ステージの幕』だ。作家がデザイナーと製作したオリジナル限定Tシャツをチョポ(メキシコ)の伝統にならい、友人や通りがかりのアートファンたちの音楽バンドTシャツと物々交換、一つに縫い合わせたもの。布には24のスピーカーが内蔵、観衆参加可能な音響作品だが、変更により幕の展示のみ。それでも、手から手へ、人から人へ、つながり、手渡される多様なものの声を、往路と帰路に聴いて欲しい。

最後に一つ。
『平和の少女像』を日韓慰安婦問題で騒ぐのはおかしかろう。世界中に、今も、私たちの日常の中にも慰安婦はいる。慰安夫も、だ。そう見えない、そう見なさないだけだ。圧倒的強者が圧倒的弱者を暴力で蹂躙する、その図式の象徴とするなら(この作品がどうであるかは見られぬゆえわからないが)、そこらじゅうに少女がいる、そのことをこそ私たちは深く自覚すべきだろう。

(2019/9/15)