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五線紙のパンセ|1)日本における西洋芸術音楽の行方|原田敬子

1)日本における西洋芸術音楽の行方
 Where abouts? Fine-art Music in Japan

Text by 原田敬子(Keiko Harada)

日本が国としてここまで危うくなり、そこへ新型…に襲いかかられたことで、本質的な問題が更に有耶無耶にされてしまいそうな今日、「日本の作曲家による全く自由なテーマでの寄稿」に目を留めるのはどのような読者だろう?と先ず素朴な疑問を持つ。そもそも一般に人は「知らない」他人の文章をネットで読みたいだろうか。紙媒体の新聞や雑誌ならば、小さく記事が掲載されるだけで「すごいね」と、掲載誌を買ってまで読んでくれる世代はまだまだ健在だ。ただ、変化はじわじわと進んでいて、数十年後には新聞、雑誌ほか音楽も含めてネット主流時代になっていそうだし、もっと先を想像すると、50年後は “人間の演奏家” が希少な存在になっているかもしれない(既にAIという存在がすぐそこにあり、使い方を間違えると我々がAIに支配されていそうだ)。

喜界島の自然環境調査中(手前、緑の服が筆者)

本稿が将来どのくらいの期間、ネット上で読めるのか存じないが、何十年後かに誰かが目にするかも知れないという意識(期待)で、日本の作曲家にしか書けないだろうことに絞り込んで各回のテーマを選んだ。第1回の本稿では、日本における西洋芸術音楽の行方について。第2回は、昨年(2019)秋の日露共催「第9回シアター・オリンピックス」で、舞踊振付家の金森穣さんと協働した新作を中心に、日本における舞台芸術の創造的環境について。第3回は、長年、不思議なご縁が続く、日本の南西地域に継承される特有の音文化から見えてきた「日本」について。

さて、もうずっと感じている事だが、筆者が長く日常としてきた創造的な営みと、クラシック音楽産業界の枠組み内での演奏家の活動は全く違っている。音大時代も卒業後も暫くは共にいろいろな事に挑戦してきた演奏家仲間たちも、マネジメント会社や団体の所属になると「そのモード」で付き合うようになる。30代も半ばを過ぎると、自発的に創造的な音楽活動を行う演奏家は圧倒的に減り、この世代以降は更に減る。
その一方で、重鎮世代になっても変わらず創造的な態度で活動を続ける演奏家は僅かとはいえ日本にも確かに存在していることは誇らしい ( 念のために説明すると「現代作品を初/再演する事が、演奏家にとっての創造的活動」とは筆者は全く考えていない。あくまで、音楽に向かう態度についての話だ。実験的・挑戦的・発展的な遊び心や柔軟さなどは、少なくとも筆者には大切なポイントである)。

Keiko Harada (C) Andreas Hussong

どんなジャンルの音楽でも、真剣にやっている人には自明のことだが、音楽は人を暴露する (柔らかな表現だと「その人自身を映し出す」)こと容赦ない。音楽に向かう精神は、その人の演奏/作品にくっきりと顕れてしまう。素晴らしい技術とキャリアを備え、国際的にも活動する日本人若手音楽家を筆者は多く知っているが、創造的感性の土壌を日々耕していないと、どうしたって歴代の手強い作曲家たちの作品に内包されている「豊かな創造的精神」にはおおよそ近づけないと感じる。そこに気づかないと、音楽家のモチベーションが、ライバルよりも「上手くなること」「完璧になること」「賞を取ること」「いい仕事をもらうこと」「偉くなること」などへと向かっていくのを見てきた。
確かに日本の音楽家は技術が高いし、丁寧だ。ただ、厳しい言い方をすれば、技術が高いので、却って空っぽさが目立つ演奏/作品に聴こえてしまうことも否めない。これは日本における西洋芸術音楽の教育方法や賞歴至上主義に関わっていることは明らかだ。教育現場の末端 (個人レッスンを含む)までに、当然ながら多数の日本人音楽家 (指導者を含む)が、西洋芸術音楽を如何なるものと認識しているのかが反映されている。

日本の大多数の音楽関係者や教育者は、西洋芸術音楽が教育に導入されて以来「西洋芸術音楽 = 完成品」と考えて来たのではないか。三大B (Bach, Beethoven, Brahms)を演奏していれば先生はご機嫌だが、Bergと言えばはてな顏、Berio, Boulezを演奏したいなどと言えば却下ということもあるだろう。もちろん各指導者の理念や教育方法があることは理解しているが、10代以下の子供たち~音大生たちは指導者よりも数十年は先を生きる可能性が高く、だからなのか無意識か、より新しいものにはワクワクし、敏感だ。
今回の本題だが、日本の西洋芸術音楽の高等教育機関では、実験精神や革新的な試みがあまり尊重されないことに、筆者は問題意識をずっと持っている。特に創造の分野では、実験が必要で、それはクラシックの作曲家たちの和声進行や音の連結の仕方、オーケストレーションだけを取ってみても顕著だ。歴史に残る作曲家はいろいろな実験をしてきた。Beethovenの、ピアノという楽器改良への執着も凄いものだったらしいし、ショパンのピアノソナタの構造を分析すると驚愕する。こうした実験精神に基づく創造的な態度での創作が尊重されてきたのが西洋芸術音楽の本質であり伝統だと筆者は考えているが違うだろうか? 教育現場では未だ理解が弱いのか?と感じる。
そこで様々な大小の無限ループが起こる。その最も顕著なもののひとつは「ピアノの内部奏法」問題だろう。一体何十年、この事が解決されていないか。鍵盤以外の場所を弾く、押さえる、打つなどの行為についての是非である。「内部奏法」は、ただ禁止されているか、「もう捨てようと思っていたピアノだからどうぞ」など。そこには日本的礼節、つまり公共の楽器を大切にすべき、という精神が反映されているだろうが、それにしては音楽大学の各教室や部屋にあるピアノは、大学にもよるが、結構杜撰に扱われているのを筆者は四半世紀に渡って見てきた。筆者はこうしたピアノが忍びなく、みたら放置できず掃除してしまう。

ところで一度、ある音楽大学で、なぜ日本の音楽系大学には少しの例外を除き日本人教員ばかりなのかを尋ねたが、その最も大きな原因は実は日本人自身の外国語力らしい。しかし「外国人は日本語が流暢に喋れないから会議で困る」等、言い換えて終止線を引いている。確かに日本の音大で教えるには日本語能力は必要だが、西洋芸術音楽専門の日本人の音大教員として、一つくらいヨーロッパ言語ができないと不味いのではないか?と通常は思うのだが、島国ニッポンのDNAなのか、教育の失敗なのか、外国語が出来なすぎる事実、これを不味い事と認めようではないか。もしヨーロッパの音大に邦楽科や雅楽科ができて「日本人は外国語が出来ないから採用しない」と言われたら、と想像すると吹き出しそうになる。筆者は欧州の音楽家たちから「日本の音大で日本人教員だけでどうやって西洋芸術音楽を教えるのか?」旨、訊かれることが少なくない。前述のように、日本では、西洋芸術音楽の本質には重きを置かない (気づかない?) 教育者が多いので、その分、技能を磨きまくることに集中でき、技術面では世界に賞賛されているよ!などと彼らに弁明こそしないが、その行方は筆者には滅法心配であり、音大に関わる者としても大きな課題である。

★演奏会情報

2020年03月29日(日) SABANI (喜界町)
「伝統の身体・創造の呼吸」継続企画
Vol.3 ピアノ×パーカッション×ダンス
pf:廻由美子/per:栄忠則
Twitter : @dsskmd (伝統の身体・創造の呼吸)

原田敬子:Schema (シェマ) バスフルートと筝のための(世界初演)

2020年03月10日(火) BKA劇場(ベルリン,ドイツ)
原田敬子:Schema (シェマ) バスフルートと筝のための(世界初演)
fl:Carin Levine/箏:菊地奈緒子

★執筆 季刊「オーケストラ」
2020年4月
連載「邦人作曲家の肖像 〜湯浅 譲二〜」

(2020/3/15)

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原田 敬子 (Keiko Harada)
作品は国内外の主要な音楽祭や演奏団体、国際的ソリストの指名により委嘱され各国で演奏されている。独自のコンセプト「演奏家の演奏に際する内的状況」により独自の作曲語法を追求しており、東アジアの伝統楽器を用いた先鋭的な作品も多い。桐朋学園大学で川井學、三善晃、その後、Brian Ferneyhough各氏に師事。日本音楽コンクール第1位、安田賞、Eナカミチ賞、山口県知事賞、芥川作曲賞、中島健蔵音楽賞、尾高賞ほか受賞。国内外で異分野とのコラボレーション多数。サントリー芸術財団「作曲家の個展」(’15)、ISCM台湾テーマ作曲家として個展開催(’16)、シアター・オリンピックス(日露共催)委嘱作曲家(’19)。新自作品集CD「F.フラグメンツ」は、レコード芸術アカデミー賞ファイナリスト。自作品集CDは4枚がベルギー、ドイツ、日本の各社から刊行されている。
現在、東京音楽大学作曲科准教授、桐朋学園大学、静岡音楽館講師。