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パリ・東京雑感|フランスでも人質に「自己責任論」|松浦茂長

フランスでも人質に「自己責任論」

text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

アフリカのベナンで誘拐されたフランス人観光客2人が、10日後に隣国ブルキナファソで解放されるという事件があった。テレビニュースでは、2人が行方不明になった自然公園の映像が毎晩流され、やがてガイドの死体が見つかったと報道され、緊張が高まったところで、解放のニュース。人質解放は何ヶ月も何年もかかることが多いのに、お手柄、と思ったが、実は人質解放作戦でエリート軍人が2人犠牲になり、作戦は<半成功>だった。
亡くなった2人(33歳と28歳)の笑顔の写真が画面に映ったとき、思わず息を呑んでしまった。沈着、誠実、温厚……一目見て引きつけられる「良い顔」の男たちだ。夜陰に乗じて隠れ家に近づき、闇の中で人質を傷つけずに犯人を倒す。アクション映画さながらの襲撃術を身につけた特殊部隊の貴重な人材を失った。この犠牲をどう埋め合わせるのか?
責任を人質に負わせようという下心だろう、ル・ドリアン外相は、解放された観光客を空港に出迎えた際に、「2人がいた地域は以前から赤のゾーン、すなわち立ち入ってはいけない、重大なリスクをともなう地域とされていました。この地方に旅行する際には、今回のような誘拐を防ぐため、また兵士の犠牲を避けるため、最大限の慎重さが求められます」と、人質になった2人の軽率を非難したのだ。日本人の人質解放の際、毎回繰り返される<自己責任論>と同じではないか!
しかもこの非難にはうさんくさいところがある。外相は、2人が行方不明になったペンジャリ国立公園は「以前から」レッド・ゾーンに分類されていたと言ったが、新聞報道によると、立ち入らないよう厳重勧告が出たのは、なんと誘拐から9日後だった。事件後にレッド・ゾーンをこっそり塗り替えておいて、「お前たちは国の勧告を無視した」と非難したのだから、非難された方は気の毒だ。無理をしてでも彼らの<自己責任論>を打ち出す必要があったのだろう。

僕の後輩にあたるフジテレビの石井梨奈恵支局長が、去年10月、FNNのウェブサイトに日本とフランスの落差を指摘した記事を書いているので引用させて頂こう。
「シリアで拘束されていたフリージャーナリスト・安田純平さんが解放されたことについて、フランスの大手新聞は次のように伝えた。
『フランスでは、拘束されたフランス人が解放されると、空港で祝福される。しかし、安田純平氏は、祝福される代わりに、今回の事態が完全に彼の過ちのせいだったと考える一部の日本人からの侮辱にさらされなければいけなかった』。
僕も日本で安田さんのインタビューを聞き、「こんな優秀なジャーナリストが叩かれるなんてフランスでは考えられない」と義憤を感じた。それにしてもフランス人はなぜ危険を冒したジャーナリストに、かくも寛大なのか。石井さんは①フランス人は、ジャーナリストが真実を伝えなければ民主主義が保てないと考える。②フランス人は苦しい立場にいる人への連帯を大切にする。③フランスは中東・アフリカに近く、関心が高い、の3つをあげている。
「連帯」といえば、確かにパリで暮らしていると、日々お節介なくらいの親切、世話焼きに出会う。押しつけがましいほどの<思いやり>が、フランス人のDNAに組み込まれているとしか思えない。
だから、フランス人の人質が解放されると、大統領が空港まで出迎えるのは、フランス国民のヒューマンな感動を代表するジェスチャーだと受け止めていた。ところが、今回は様子が違う。空港まで大統領と外相、軍事相が出迎えはしたが、人質になった2人の軽はずみを非難するために行ったようにさえ見える。2人がジャーナリストでなく、観光客だったから冷たい対応だったのだろうか?それならば、そもそもなぜ空港に出迎える必要があったのか?

どうやら僕は勘違いしていたらしい。マクロン大統領が空港に出向いたことについて、大統領府は「大統領が決定し、指揮したミッションを締めくくるため」と説明し、「彼は、すべてのフランス人の大統領であり、たとえ軽率な行動をとった者であれ、例外ではない。」とつけ加えている。大統領の出迎えは、ヒューマンな共感以前に、フランス国家の有りようを示す理性的な象徴行為だったのだ。
それにしても、人質解放のミッションは、なぜ大統領がわざわざ空港に出向かなければならないほどの重大事なのだろう?

特殊部隊員の葬儀,
(仏大統領府ウェブサイトから)

5月14日に金のドームの教会を背景にしたアンバリッドの中庭で、荘厳な葬儀が行われた。5日前に殺されたセドリック・ド・ピエールポンとアラン・ベルトンセロは特殊部隊員だったので、柩をかつぐ隊員たちは覆面姿だ。
マクロン大統領は弔辞の中で、真っ先に
「フランスは自国民を決して見捨てない国、どのような状況下であろうと、たとえ地球の果てであろうと、決して見捨てない国であります。フランス人を襲撃する者は、我が国が決して屈しないことを、我が軍が出動し、今回のようなエリート部隊が襲撃者の前に立ちはだかることを知らねばならない。」
と言った。フランス国家の主権宣言である。
政治学者アリエル・コロノモ氏は「国家にとって、自国民の生死が国家より下位の特定集団に握られるのは許しがたい。それは主権問題である」と明快に解説している。(『ルモンド』5月15日)。コロノモ氏によれば、<主権>の根本には「国家は国民の生死を意のままにできる」という原則があるのだそうだ。従って、「国家は誰の命を救うかを決める。この場合市民の命だ。同時に国家は誰の命を危険にさらすかを決める。この場合兵士――彼らは国家に仕え、死を受け入れなければならない。」
人質が解放されたとき、なぜ大統領が空港にまで出向くのか?その謎はこれで解けた。国家主権が傷つくのを防ぎ、フランス国家の根本原則を世界に示す時だからだ。「国威発揚」という古い言葉を持ち出したくなる。
そして、この国家主権の大事の犠牲者の葬儀は、共和国の神聖祭儀に他ならない。さすがにマクロン大統領は、その意味を見事に言い当てている。
「命を捧げることは命を失うことではありません。戦闘において義務を遂行して死ぬ者は、たんに義務を果たしただけではない。彼は天命を全うしたのであります。……私たちは心の底から感じています、私たちはその深みにおいて知っています、あなた方の示してくれた模範が私たちすべてを救ってくれることを。国は、友情と連帯によってひとつにならない限り強く自由であることは出来ません。国は英雄によってのみ高められ、品位を示し、一体となり、強く自由であることが出来ます。このことこそが、あなた方の闘いの深い意味であります。」

自国民を地の果てまで守る国のあり方は、外国での作戦もためらわない強い軍、兵士の犠牲と必ずワンセットなのだろうか?それが主権とよばれるものなのだろうか?マクロン大統領の雄弁を聞いて、背筋の寒くなる思いをしたのは、僕が平和憲法のもとで、軟弱になりすぎたせいだろうか?自衛隊も海外で邦人救出のため武力行使する日が来て、日本でもこんな演説が聞かれるようになるのだろうか?
フランス人の90パーセントは軍に好感を持っている。ラジオではマクロン大統領の弔辞を取り上げ、うがった解説をしていた。「全ての価値がカネに還元される病んだ現代社会の中で、軍は<無償性>を体現しています。カネの支配によって干からびた人間の生命・実存。軍はその対極に、自己の<贈与>=他者のために自分の命を捧げる生き方を示しています。軍の人気がこれほど高くなったのは、商業主義にむしばまれた現代社会への失望の結果です。」説得力ある解釈ではないか。ますます不安になった。

(2019年5月30日)