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パリ・東京雑感|ノートルダム炎上|松浦茂長

ノートルダム炎上        

text & photos by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura) 

パリのスーパーで買い物し、クレジットカードの暗証番号を入れようとしたら、カード読み取り器の画面に、いきなり「ノートルダム再建のための寄附をしますか?ウイは緑、ノンは赤のボタンを」という指示が出た。ノートルダム炎上から5日後。火事の翌日には、ルイヴィトンが250億円、トタル石油が125億円など大企業が競って寄附を約束し、インターネットに続々登場した寄附サイトには数時間内にそれぞれ数百万円集まった。黄色いベストの人達だけは「ノートルダムに出す金があれば貧乏な人に」と抗議したが、熱に浮かされたような寄附衝動は、カネを何に使うのが有効かという経済的判断とは噛合わない。金持ちから子供まで、皆が何かしないではいられない、切羽詰まった気持ちの表現だ。
一体この熱気は何なのだろう?突飛な連想かも知れないが、12世紀にカテドラルを建てたときの人々の熱狂を想像してみた当時の年代記は突然沸き起こった高揚感記録している 

「1144年、シャルトル大聖堂の塔が魔法のように空に向かってそびえ始めたとき、信心深い人達は、石切場から石を運ぶ荷車に自分の体を結びつけ、カテドラルまで力を合わせて運んだ。熱狂が全フランスに広がり、遙か遠方から男も女も、職人のためのワイン、油、穀物などおびただしい食料を携えてやって来た。その大群衆の中には貴族、貴婦人もまじり、彼らも自分の手で重い荷車を引いた。すべてが整然と秩序正しく、深い沈黙のうちに、完璧に行われた。人々の心は一つに溶け合い、敵同士だった者も許しあった。」(Kenneth Clark『Civilisation』) 

あの日、ノートルダムの屋根から赤々と炎が上がるのを見たフランス人がどんな精神状態に陥ったのか、正確に感情移入することも、それを言い表すことも不可能に思える。フランス語で2冊の本を出した三嶋愛子さんは「テレビで塔が焼けるのを見たとき、涙がとまらなかった。あまりに無惨な。」とおっしゃった。外国人でさえ長くパリで暮らすと打ちのめされた気持ちになるのだから、フランス人衝撃はどれほどだっただろう。火災から10日たったころでも、隣人との会話がノートルダムに触れると、顔が硬直する。
火事のあった夜、ニュースを知った人々は遠くからもかけつけ、おびただしい数の人々が炎上するカテドラルを見守った。異様に静か群衆。厳粛な、荘厳とすら言える光景だった皆トランス状態になっていた」と表現した記事もあったが、催眠術にかかったように、なかば宗教的忘我の境地に入っていたのかも知れない。若者達がひざまずき、聖母マリアへの祈りを合唱する姿が、時代錯誤にも不自然にも見えない。当然そこにそうあるべき姿に映ったのだから……。
フランス人の大多数がカトリック信者だったころなら、大打撃を受けるのも分からなくはないが、いま日曜日に教会に行くフランス人は5パーセント。ノートルダム炎上を見て涙を流したフランス人ほとんどは信者だろう。だとするとカトリックであるなしに関わらず、カテドラルが焼けたとき、フランス人は心の中の大切なものが凍り付くような恐怖を感じたことになる
マクロン大統領は消火現場を訪ねたときノートルダム、それは私たちの歴史、私たちの文学、私たちの夢。それは、私たちが悪疫、戦争、占領からの解放、すべての歴史的瞬間を共に生きた場所でした。」と言い、左翼ポピュリストのメランションはノートルダムは1000年来フランス人のメトロノーム。この建物は私たち皆の家族の一員いま私たちは喪に服す時です。」と言った。マルクス主義を身につけた無神論フリーメイソンの左翼指導者が、こんなに詩的な言葉でノートルダムを讃えるとは!

ナポレオンの戴冠、ドゴール大統領、ポンピドー大統領、ミッテラン大統領の葬儀といった国家行事の舞台だったからフランス人のメトロノームというのではない。ペストの時も、戦争の時も、ノートルダムに心を寄せて祈った。苦難のとき、歓喜の時を「共に生きた」場所、すべての人が心を一つに出来る特別の場所だったのだ。
ヴェルサイユやルーブルのように王侯貴族の専有物ではなく、カテドラルは全階級に開かれていた。とりわけビクトル・ユゴーの『ノートルダム・ド・パリ』の主人公はジプシー娘エスメラルダせむしの捨て子カジモドであり、ユゴーは、差別を受け、社会からはじき出された人々を核にカテドラルの神話を生み出した
十数年前、クリスマスイブにノートルダムでチョン・ミョンフンがフランス放送フィルハーモニーを指揮し、盲目のテノールアンドレア・ボチェッリ歌うという豪華な深夜ミサが企画された。ミサは招待者限定で、招待されたのは、エイズ患者、身障者、宿無し……。僕はチョン・ミョンフンにインタビューするため前夜のリハーサルに行った。リュスティジェ枢機卿がミサのさわりのジェスチャーをしながら、チョン・ミョンフンと演奏のタイミングを打ち合わせる。聖体拝領のリハーサルで僕まで信者役一人に動員され枢機卿は僕に向かって中国式の挨拶をしてふざけたり至極上機嫌だった。対照的にチョン・ミョンフンは生真面目に「私はこれまでクリスマスに仕事したことはありません。クリスマスは家族そろって祝うです。でも今回だけは、ミサの趣旨に共感したので、引き受けました」と言っていた。カテドラルの中では俗世の上下関係がひっくり返らなくてはならない。権力者、金持ちが優先されてはならないのだ。 

1967-68年に留学した頃のノートルダムは静かだった。バスチーユ近くの学生寮からソルボンヌへ通う途中、セーヌ川の向こうにノートルダムの東側が見える。はじめゴツゴツして原始林のような怖さを感じたが、毎日眺めているうちに、懐かしい優しさが見えてきた。帰りはときどき中に入り、バラ窓の目眩のするような強烈な色の饗宴にうっとり、贅沢な一時を過ごした。週末には無料のオルガン演奏。オルガニストはピエール・コシュローだった。
パリで暮らすようになってから、7,8年前までは10時半のノートルダムのミサに行った。グレゴリオ聖歌が聞けるからだ。グレゴリオ聖歌といえば人里離れた修道院で、頭を剃った黒衣の修道僧が歌うイメージだが、ここのは違った。鮮やかな青い衣装の若い女性がビブラートのない声でソロしたり、カウンターテナーが混じったり、大祝日にはノートルダムが建った頃の陽気なポリフォニーを演奏したり、モダンなのだ。
でも10年ほど前から観光客が激増し、ミサの最中もフラッシュをたいて写真を撮る行儀の悪いのが増えたし、入り口にうんざりするほど長い行列が出来るようになったしいつかノートルダムから足が遠のいてしまった。学生時代みたいに通学途中にちょっと立ち寄って、静かな堂内で10分ほど豪華な気分を味わうなんて遠い夢観光という消費文明ノートルダムを喰ってしまった。

いや、そうではない。フランス人の心の底に市場価値と正反対の、値段の付けられない価値への憧れ生きてい燃えるノートルダムへの人々の思い、メランションの大聖堂賛美……それらは「観光資源としての文化財」などという商業的価値とは無縁のもっと深い願望に根ざしている。イダルゴ・パリ市長オリンピックのためにノートルダムを再建する」という発言に対し、フィンケルクロートは「あからさまに観光、すなわち消費の対象とみなす卑しい発言だフランス人、痛みをとおしてノートルダムを自分たちの存在の一部として再発見したまさにその時に!」と噛みついた。)
市場価値の拒否を最も鮮やかに示したのが消防の優先順位だ。消防にも従軍司祭のような専属司祭がいる。フルニエ神父53歳。屋根が激しく燃えている最中屋根に大量の水を掛けると、炎が下方=建物の中に向かうので、かえって被害が大きくなる従って、まずやるべきなのは中に入って運び出せるものを救出すること。その指揮をとったのがフルニエ神父で、500人の消防隊員のうち100人以上が彼のでこの危険な作業にあたった。神父は大聖堂内部がどのくらい熱かったか覚えていないという800度で燃える天井から無数の破片が落下する。それがオレンジ色と赤雨が降りそそぐように見えたそうだ。
聖堂内には沢山のチャペルがあり、聖遺物、宝物、絵画、彫刻などが置かれている。それらをどういう順番で運び出すか、優先順位を決めるのがフルニエ神父の最初の仕事聖遺物は大箱に鍵を掛けて保管されており神父鍵を探そうとしたら、部下斧で箱を打ち割ってしまった
フルニエ神父の優先順位に迷いはなかった。
「私にはどうしても守りたい二つがありました。茨の冠と聖体です」
イエスが十字架に掛けられる前に、彼を嘲笑の対象とするため被せられた茨の冠。そんなものが2000年も残るはずないと思うが、聖遺物は歴史的事実や科学的証明とは関係ない。聖体(ミサによってキリストの体に変化したとされる)にいたってはただのウェハース状のパン市場価値ゼロに等しいパン=キリストの体と、文化財として無価値な信仰のシンボルをかかえて、オレンジの雨が降り注ぐ大聖堂を歩く神父の姿を想像してみた。目に見えるもの、カネに換算できるものしか理解しようとしない今の時代に対抗して「無=価値」を守ることに命をかけたヒーロー、あるいはドンキホーテではないか 

ずたずたに引き裂かれ、互いに憎悪し合ういまの世界のただ中で人々の一致は可能だという希望を与えてくれたのがノートルダム大聖堂だった。以前このコラムでカテドラルに触れたとき(カテドラルの誘惑アンドレ・マルローを引用しながら「ゴチックは目のくらむ驚嘆の世界を拝むのではなく、その世界に入り、その喜びを共にする交感へと私たちを招いている。と書いた。
あのときカテドラルの中で空想した「交歓」=communion=一致、一体性に過ぎなかったが、今度の出来事によって現実の「交歓」の力を目の当たりに見ることが出来た。
では、どんな仕掛けでその不思議が可能になるのかエミールマールの見事な要約をご紹介しよう。 

「(大聖堂)は、言葉、音楽、宗教劇の生きたドラマ、人間群の演じる動かない劇であり、あらゆる芸術がそこで結合しているのだった。それは何か芸術以上のものであった。それはプリズムによって多数の光線の束に分かれる以前の、純粋な光であった。人間は、社会の階級の一つに、あるいは一つの職業の中に閉じ込められ、散り散りになり、毎日の労働や生活によって打ち砕かれるものだが、大聖堂へ来ると、人間の本性は一つのものであることを改めて感じるのであった。そこには均衡感と調和が見出された。大祝日に寄り集まる群衆は、自分たちが一つのものとして生きていることを感じるのだった。」(『ヨーロッパのキリスト教美術』)     

(2019年4月30日)