Menu

パリ・東京雑感|カミュ『ペスト』の予言 |松浦茂長

カミュ『ペスト』の予言
Revival of Albert Camus’s “The Plague”

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

1720年マルセイユのペスト(ミシェル・セール)

カミュの『ペスト』は世界中で超ベストセラーになっていて、杉並の図書館だと今121人の予約者がいる。新型コロナにおびえる私たちが『ペスト』をむさぼり読むのを、カミュが見たら何と言うだろう。彼は疫病の恐ろしさを伝えるために、この小説を書いたのではない。ペストのため封鎖され、死と隣り合って生きる日常を克明に描いたのは、状況の正確な再現を目指すリアリズムのためではない。疫病は、何か別の怖ろしいもののアレゴリー(寓意)なのだ。ところが、いま僕らは『ペスト』のリアリズムに感動し、伝染病に支配されて生きるとはどういうことなのかを、この小説から読み取ろうとしている。カミュは自分の小説が作者の意図と違った読み方をされ、全く予期しない賞賛を受けているのを見て、面食らうに違いない。
もっとも僕が昔『ペスト』を読んだときを思い出すと、疫病による都市封鎖という異様な状況に引かれ、その中で助け合う男達の友情に感動した。つまり、スリリングに再現された封鎖社会と、その中で繰り広げられる人間模様を楽しんだのであって、写実小説の読み方と変わらない。ペストとは、伝染病よりもっと怖ろしい何ものかの寓意かも知れないなんて思いもしなかった。そもそもペストを、戦争、占領、レジスタンスの寓意、あるいは全体主義、共産主義社会の寓意と解釈したところで、小説がもっと面白く読めるようにも思えなかった。「思想小説」に、胡散臭いものを感じていたのかも知れない。

ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』

そもそも、ぼくら日本人はアレゴリーが苦手だ。たとえばドラクロワの有名な、『民衆を導く自由の女神』。フランス語の題は大文字でLiberté「自由」となっていて「女神」とは書いてない。つまり、「自由」という目に見えない抽象概念を目に見えるように表したのがあの女性なのであって、断じて神さまではない。この絵は革命のアレゴリーだから、「自由」はたくましい民衆の女として描かれ、よく見るとフランス革命以来自由の象徴とされるヘンな赤い帽子を被っている。でも、抽象概念を可視化したLibertéを、日本語に正しく訳すことが出来るのだろうか?よろずに神が宿る日本だから、「自由の女神」が最良の訳なのかもしれないが。
フランス中世の大ベストセラー『薔薇物語』には、「儀礼」「歓待」「理性」「純潔」「危険」「恐怖」「嫉妬」などという人物が次々登場する。抽象=人物が織りなす摩訶不思議な物語に熱中できるなんて、フランス人は変わっている。ともかくヨーロッパは昔からこんな具合でアレゴリーに親しんでいるから、ドラクロワの胸をはだけた女性を見れば、直ちに「彼女は『自由』だ」と見分けるのだ。

ティツィアーノ『田園の奏楽』

ルーブル美術館にティツィアーノの『田園の奏楽』という謎めいた絵がある。今にも雷雨になりそうな怪しい空模様。女性はなぜか水差しの水を井戸に戻している。男は服を着て、なぜ女だけが裸なのか?最近、絵に添えられた解説を読んでみたら、「この絵画はおそらく『詩』の寓意であり、その象徴である笛と注がれる水を、理想美をもって描かれた二人の裸婦がそれぞれ手にしている。これら非現実の女性の姿は、彼女らに霊感を呼び起こされた二人の男性の想像の中にのみ存在している」と書いてあった。アレゴリーなのだ。フランス文化に親しんだつもりでも、非現実の抽象=人物をつい現実の人間と勘違いして見ていたわけだ。

『ペスト』に戻ろう。もしかしたら、僕らがこの小説の疫病描写の生々しさに驚嘆するのは、ティツィアーノの裸婦を現実の女性として鑑賞するような、不謹慎な態度かも知れない。アレゴリーは見えるものを通して見えないものにいたる道なのだから。
いや、そうとばかりは言えない。カミュが生きたのは、科学に対する限りない信頼の時代だったから、ペストは過去の恐怖にすぎなかった。疫病を題材にするとしたら、それは本当に怖しい同時代の悪=戦争と全体主義のアレゴリーとして、と考えるのが、当時の常識。ところが、新型コロナの登場によって、悪の順位が逆転し、伝染病は戦争よりも、全体主義よりも怖しい最強の悪となった。ペストはアレゴリーとされるにはあまりにも生々しい現実になってしまったのだから、アレゴリーとして読まなくても、今は許されるはずだ。
驚くのは、新型コロナ時代の倫理が、この小説に予言的に明示されていることだ。世界が伝染病に脅かされているとき、人間の第一の義務は人にうつさないこと。成城大学の有田英也教授によると

「理性を信じるタルーは『(誰もが)ペストをもっている』として、他人に感染させないのは『気をゆるめない人間』だと言う。……自分にできることを丁寧にする。それによってヒーローになれるわけではないが、コロナ時代に求められる行動規範だ。」

タルーは、この物語の語り手である医師リウーと協力して、保健ボランティアを組織する男。いつも頬笑み浮かべて人に接する落ち着きと、感傷を超えた優しさの持ち主だ。
タルーは17歳のとき、根源的経験をする。検事の父が自分の仕事ぶりを息子に見せようと、傍聴席に座らせた。父は被告に死刑を求刑するのだが、タルーの心は父の雄弁ではなく、被告に惹きつけられる。

「僕はその不幸な男に対して、親爺などには全然感じたこともなかったような、それこそ目のくらむような身近さを感じた。」

この時を境に、父への親しみと尊敬は消え、人を死刑にする忌まわしい人間から、いかに逃れるかが彼の人生のテーマになる。自分達が安穏に暮らして行けるのは、死刑という他者の命の犠牲のおかげだ。人間社会は、死刑の上に成り立っている。他者の死によって平穏無事が保障される私は、すでにペストなのだ……。タルーにとってどうやってこのペストの罠から自由になるかが生涯の課題になった。

「僕は、全精神をあげてまさにペストそのものと闘っていると信じていた間にも、少なくとも自分は、ついにペスト患者でなくなったことはなかったのだ、ということを悟った。僕は、自分が何千という人間の死に間接に同意していたということ、不可避的にそういう死を引き起すものであった行為や原理を善と認めることによって、その死を挑発さえもしていた ということを知った。
それからずいぶん長い間、僕は恥ずかしく思っていたものだ。たといきわめて間接的であったにしろ、また善意の意図からにせよ、今度は自分が殺害者の側にまわっていたということが、死ぬほど恥ずかしかった。僕ははっきりそれを知った ─ ─ われわれはみんなペストの中にいるのだ、と。そこで僕は心の平和を失ってしまった。」

タルーの言う「ペスト」はもちろんアレゴリーだし、「人間の死に同意する」も、比喩的表現だ。彼は、「すっかり心からおびえ…強い光線におじけ立った梟という様子の」罪びとを目の前に見たとき、打ちのめされるような負い目を感じたのだろう。私が彼を犯罪に追いやり、その責任を負う代わりに彼を処刑する。平穏に見える人間社会の安定は、殺害の上に築かれていた。若き日のタルーは、まるで天啓にうたれたように、「自分も殺す側にいる」と確信する。理屈ではなく、衝動的直観である。
でも、タルーはなぜそれをペストと呼ぶのか?恐るべき伝染性があるからだろう。誰も彼も殺害者の側に身を置きながら、正直な市民としてのんきに生きているではないか。自分も、その良心鈍磨の罠にはまっていた。良心の鈍さは伝染する。他者の死に同意を与えないためには、必死で覚醒の努力を続けなければならないのだ。タルーはこうして、自分がペスト患者だという痛切な自覚から、どう生きるべきか、根本倫理を導き出す。

「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ。なぜかといえば誰一人、まったく この世に誰一人、その病毒を免れているものはないからだ。そうして、引っきりなしに自分で警戒していなければ、ちょっとうっかりした瞬間に、ほかのものの顔に息を吹きかけて、 病毒をくっつけちまうようなことになる。自然なものというのは、病菌なのだ。そのほかのもの ─ ─ 健康とか無傷とか、なんなら清浄といってもいいが、そういうものは意志の結果で、しかもその意志は決してゆるめてはならないのだ。りっぱな人間、つまりほとんど誰にも病毒を感染させない人間とは、できるだけ気をゆるめない人間のことだ。しかも、そのためには、それこそよっぽどの意志と緊張をもって、決して気をゆるめないようにしていなければならんのだ。」

「自然は病菌」!何と暗い思想だろう。タルーは人間の自然を超克し、決して人にペストを伝染させない無神論「聖者」の道を歩もうとする。しかし、「聖者」に到る修行が「気をゆるめない」こととは!一体「気をゆるめない」とは、何の比喩なのだろう。アレゴリーとして読もうとすると、つまずきそうだが、新型コロナを経験した私たちには、ドキッとするほどリアルな言葉だ。比喩ではなく、日常の心がけとして、すんなり理解できる。
マスク、手洗い、人に近づかない……<新しい日常>は、病毒を感染させないため、「自然」を克服し、「よっぽどの意志と緊張をもって」生きなければならない。うんざりするほど「疲れる」生活だ。しかも、新型コロナは、感染しても症状が出ない陰険なウイルスなので、私たちは誰でも、他人を感染させるリスクがある。タルーの「誰でもめいめい自分のうちにペストをもっているんだ」は、新型コロナを当てはめると、ずっと説得力が出てくる。

タルーの組織したボランティアは、生命の危険を伴う仕事なのに、着々と成果を上げて行く。タルーの静かなひたむきさと、誰の心にも入って行く優しさが周りの人を惹きつけるのだろう。
美しいシーンがある。ジャーナリストのランベールは、たまたまオラン滞在中にペストのため都市封鎖に遇い、帰れなくなった。何としてでもパリの妻に再会しようと、密輸業者に金を払って脱出を試みる。何度か失敗した後、いよいよ今夜は決行可能という日、彼は町にとどまり、ボランティアを続ける決心をする。

「ランベールはリウーに言った。『僕は行きません。あなたがたと一緒に残ろうと思います』
『じゃあ、奥さんは?』と、つぶれたような声で、彼(リウー)はいった。……
ランベールはいった『しかし、自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです』
タルーは、……こういう注意を述べた――もしランベールが人々と不幸をともにしようとするなら、幸福のための時間はもう決してえられないかもしれない。(死ぬリスクが高い)。どちらか選ばなければならぬ。
『そんなことじゃないんです』と、ランベールはいった。『僕はこれまでずっと、自分はこの町には無縁の人間だ、自分には、あなたがたはなんのかかわりもないと、そう思っていました。ところが、現に見たとおりのものを見てしまったいまでは、もう確かに僕はこの町の人間です、自分でそれを望もうと望むまいと。この事件はわれわれみんなに関係のあることなんです。』」

殺す側にまわりたくないというタルーの願いが、ランベールの目覚めとなって実ったのだ。
リウーに「平安に至る道は?」と尋ねられたとき、タルーは一言「共感」と答えている。このつつましい一言が、『ペスト』全編の思想だろう。ペスト患者のために働く中で、ランベールも自分が殺す側にいたことに気づいた。言い換えれば、あらゆる人の苦しみについて、自分は無縁ではない、世の悪について、自分には負い目があると気づき、自分の幸福を求めるのをやめた。それがタルーのいう「共感」の意味だ。
ちょうど、アメリカの白人青年たちが、新型コロナとともに生きるうちに、黒人に対する負い目に気づき、Black Lives Matterのデモに大挙して加わったように。

アルベール・カミュ

『ペスト』の終幕は悲しい。疫病が終息し、オラン市民が歓喜する中で、タルーは時期遅れのペスト菌にやられて死んで行く。自暴自棄に陥った市民に、「共感」の息吹を吹き込み、町を無政府状態から救った高貴な魂が、役目を終えてひっそりと消えて行った。カミュはタルーの聖者的ヒロイズムに批判的なのだろうか?
誰からも愛される医者リウーは、オラン封鎖が解かれる直前、遠くで療養していた妻が死んだという知らせを受け取る。
そして、この小説は怖ろしい一節で締めくくられる。

「ペスト菌は決して死ぬことも消滅することもないものであり、数十年の間、家具や下着類のなかに眠りつつ生存することができ、部屋や穴倉やトランクやハンカチや書類のなかにしんぼう強く待ち続けていて、そしておそらくはいつか、人間に不幸と教訓をもたらすために、ペストが再びその鼠どもを呼びさまし、どこかの幸福な都市に彼らを死なせに差し向ける日が来るであろう……。」

ペスト菌はもちろんアレゴリーだ。しかし、戦争や共産主義、全体主義の再来を「ペスト」のなかに読み取るより、いまの私たちには、「ひそんでいた伝染病が襲ってくる」とストレートに読む方が生々しい現実味がある。新型コロナなどは子供だましで、5年後に世界人口の3分の1を消滅させる伝染病が来るのでは?と、心のどこかでおびえているのだから。
それにしても「ペスト」襲来は、人間にどんな「教訓」をもたらすため?80年近く前に書かれたこの予言的小説の中に、私たちは、その答えを発見できたように感じるのである。

(2020年7月29日)
(2020/8/15)