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パリ・東京雑感|新型コロナは自然が突きつけた最後通牒?|松浦茂長

新型コロナは自然が突きつけた最後通牒?
Nature Delivers Us an Ultimatum: Covid-19

Text by 松浦茂長(Shigenaga Matsuura)

ルーアンはモネの描いたカテドラルで有名だが、カテドラルの裏手にペスト患者の遺体を安置したという陰気な建物がある。髑髏の浮き彫り、壁に埋め込まれた黒猫……。建てられてから670年経つというのに、恐ろしい。鳥肌が立った。
ヨーロッパは1347年以来、10年ないし20年ごとにペストに襲われ、時には4分の1から半分の人が死に、地図から消えた町もあった。革命前のフランスで25歳の若者は少なくとも一度はペストを経験していたという。14世紀に教皇の侍医を務めたギ・ド・ショリアクは「父は息子に会わない、息子は父を訪ねない。情けは死に絶え、希望は消え去った。」と書いている。

サンマクルー納骨堂(ルーアン)

さいわい日本はペストの恐怖を知らずにすみ、エイズも大流行にならなかったので、ヨーロッパ人に比べると疫病に対しのんきだったかも知れない。しかし、1918-1919年のスペイン風邪による世界の死者は第一次大戦の死者よりはるかに多い5000万人。20世紀になっても伝染病は戦争より殺戮力が強いのだ。

時代は一気にさかのぼって、旧約聖書に伝染病と戦争の比較がある。イスラエル王ダビデは人口調査をしたため、傲慢の罪の罰を受けるハメになった。神は預言者ガドを通じてこう訊ねる。

「私はあなたに三つの選択肢を示す。そのうち一つを選ぶがよい。7年間の飢饉があなたの国を襲うことか。3ヶ月間、敵の前を逃げ回り、敵に追われることか。3日間、あなたの国に疫病が起こることか。」

ダビデは疫病を選び、7万人が死ぬ。それにしても、たった3日間の疫病が、3ヶ月の戦争と等価とみなされるとは!

疫病に対して人間は何が出来ただろう。ショリアクの言うように、親は子を避け、子は親を避ける、つまり人と人を引き離すしか打つ手はなかった。思いやり、助け合いといった人間らしさを押し殺し、自由を犠牲にしなければならない。ペストとは比較にならない新型コロナでさえ、私たちは道で友人に会っても、軽い会釈だけで別れなければならない。おしゃべりするとなったら、禁を犯す犯罪者みたいな後ろめたさ。仕事がなくなり、感染の不安の上に金の不安に脅かされる不条理。生物以下のちっぽけなウイルスに屈服する、屈辱の毎日だ。
人間は意味のない屈辱に耐えられない。せめて疫病には深い意味があると信じられれば、諦めもつく。聖書のダビデのエピソードのように、伝染病に神の罰という意味を与えるのは、災厄を生き抜くための知恵でもあったろう。

時代は更にさかのぼり、イスラエルの民がエジプトから脱出するモーセの時代、神は言う

「私は深夜エジプトの中を歩む。そして、エジプトの地のすべての初子は死ぬ。そして王座に着くファラオの初子から、石臼の傍らにいる女奴隷の初子まで、また家畜の初子もすべて死ぬ。大きな叫びがエジプト全土に響き、そうした叫びはかつて起こったことがなく、再び起こることもない。」

疫病は神の力の行使なのだ。

ギリシャ悲劇でも疫病は神のワザ。ソポクレスのオイディプス王は、父を殺し母と結婚する罪を犯したため、神がテバイに疫病の罰を下す。

「しかばねは悼む者なく
葬られず、るいるいとして
よこたわり大気をけがす。
新妻も髪しろき媼も
祭壇のきざはしにつどいつ、
たえがたき苦難よ去れと
祈りては、ちまたちまたに
みちわたるかなしみの声。」

時代は下り、14世紀イタリア。ボッカッチョの『デカメロン』はペスト第一波に打ちのめされたフィレンツェの生々しい描写で始まるが、<なぜ><何のために>これほどの災厄に見舞われるのか、疫病の意味を問わずにはいられない。

「それは、天体の影響によるのか、あるいは私たちの不正な行いの故に私たちを矯正しようと神さまの正しいお怒りから人間の上にくだされたのか、」

「神さまの正しいお怒り」。これが、<なぜ><何のために>の問に対し、教会が用意した答えだった。冒瀆、不倫、贅沢な宴会騒ぎ、居酒屋に入り浸り……罪深い社会を罰するために疫病が下された。悔い改めよ、と教えるのだ。
1796年ジェンナーが天然痘ワクチンに成功するまで、人類には伝染病に立ち向かう術がなかった。疫病に打ちひしがれた人々に、科学の力で希望を与えられる時代ではない。伝染病と闘う武器がなく、屈服するほかない時代の人々は、どうやってその無力に耐えたのだろう。悔い改めれば罪が贖われ、救われるかも知れない、と信じることで、かろうじて慰められ、生きる希望を取り戻したのではないだろうか。ペストによって社会全体が得体の知れない恐怖に覆われていた、その捉えどころのない不安を、神への恐れというくっきりした対象に向け変える。教会は、心理カウンセラーの役割を果たしたのである。
14世紀、悔い改め運動の絶頂期に、むち打ち苦行のセクトが登場した。彼らは、先端に十字架の形の尖った金属片をつけた長い革紐で自分の体を鞭打ちながら行進する。むち打ちによって人類の罪の赦しを求めるのだが、イタリアからドイツまで、全ヨーロッパに熱狂的むち打ちブームが広まったため、教皇からおとがめを受けたという。

しかし19世紀には、ペストも勢いを失い、天然痘はワクチンによって打ち負かされ、黄熱病、チフス、コレラも徐々に制覇され、もはや神の憐れみに頼る必要はなくなった。伝染病はウイルスや細菌によって科学的に説明される自然現象であり、<神さまの正しいお怒り>という意味付けを必要とする時代は終わった。

いや、本当に終わったのだろうか?事態はそう単純ではなさそうだ。ニューヨークタイムズのオピニオン欄を眺めていたら、『アースデイ、私たちは悔い改めるべきだ』というタイトルを見つけてびっくりした。21世紀に「悔い改め」とは!誰に対して悔い改めるのか?筆者は元国連スタッフのヒュー・ロバーツ氏。エッセイのテーマは、地球環境だが、「悔い改め」などという古色蒼然たる語が登場した背景に新型コロナがあるのは明らかだ。
地球温暖化を食い止めるため、過去30年間沢山のレポートと会議があったが、二酸化炭素の排出量は激増。もう科学技術でコントロールできる限界を越えてしまったとして、気象変動の専門家ケビン・アンダーソン教授の言葉を引用している。

「私たちは失敗を認め、恥じ、うなだれるべきだ。」

ニコラ・ユロー

マクロン政府の元環境相で、フランス人に絶大な人気のニコラ・ユロー氏は「自然が最後通牒を突きつけた」と警鐘を鳴らし、新型コロナに込められた自然からのメッセージを正確に読み取らなくてはいけないと言う。(昔なら「神の裁き」とか「神の怒り」と言ったところを、21世紀流に翻訳すると「自然の最後通牒」になるのでは?)。

「文字通りの最後通牒です。これほど過酷な通牒が内容空虚であるはずがない。必ず意味があるべきです。一度しかないこのチャンスを逃さず、自然のメッセージを聞き取りましょう。聞き取るとは、つまり、私たち人間を高めるための教えを、そこからくみ取ることです。」

たしかに、去年も自然はアポカリプス的メッセージを送り続けてきた。東アフリカから中東、アジアを襲うイナゴの大群。貴重な動物が絶滅しかねないオーストラリアの森林火災。それでも人間はメッセージの意味を理解しようとしなかった。そこで、自然は最後通牒=コロナをつきつけた。たちまち世界の航空はストップ、クルマも工場も建築も止まり、石油の消費が激減。科学者が声をからして警告しても馬耳東風だった二酸化炭素削減が、コロナの一撃で実現してしまった。

青白い馬が現れた。それに乗っている者の名は「死」と言い、これに陰府が従っていた。(黙示録)

もっと卑近な悔い改めもある。ニューヨークに住む作家・ジャーナリストのトリッシュ・ホールさんは週2回ピラティス(エクササイズ)教室、毎月シワ取りレーザーなどの美顔術、ペディキュア、ヘアカラー、ひんぱんに劇場通い、トレンディなレストランで約7000円のディナー……の生活を送っていた。ところが外出が禁止され、分かったのは、高い金を払って忙しくやっていたことが、どれも本当はなくとも済むということ。髪が染められなければ、白髪でいよう。少しでも若く、活動的に見せようとするのはやめる。(アメリカのベビーブーマー=団塊世代は老いと死を認めない)。芝居や映画の最新作を追いかけなくても良い。コロナ以前の私の生活は狂っていた。でもあれが、地位あるニューヨーカーにとってのノーマルだったのだ。
ホールさんは、家に閉じ込められるのも悪くないと思い始めた。金曜日にはトリの丸焼き、土曜日には残り物でスープ。ケーキは娘が焼く。トーストが黒焦げになっても、焦げを削り落として食べる。店に行くのは怖いから……食材の無駄はなくなった。
このまま数ヶ月皆がテレワークを続ければ、社員も社長もニューヨークで暮らす必要がないのに気づくだろう。小さな素敵な町への引っ越しブームが起こるはず、とホールさんはコロナ後を夢見る。(テレワーク出来る脱出階層と体で稼ぐ居残り階層の格差が更に拡大する?)
ニューヨークの虚飾に気づき、シンプルな田舎暮らしに惹かれるなんて、古典的回心ではないか?聖書の『黙示録』に記された、古代ローマ=大バビロンの淫らな女や地上の忌まわしい者たちの母に対する預言を思い出させる。

それにしても、なぜ今、中世がよみがえったかのように、疫病の意味が問われ、悔い改めが語られるのだろう?新型コロナがあまりにも狡猾でしぶとく、科学には手も足も出ない。私たちはいま中世人同様、屈辱と無力を嫌というほど味わわされたからだろうか。
いや、それだけではない。今の世界はどこかおかしい、このままでは破局は避けられないと言う漠然とした不安を多くの人が共有するようになり、新型コロナはその危機感を顕在化したに過ぎないのではないか?生き延びるためには大転換=悔い改めが不可避。現在のパラダイムは限界に達し、一旦それと断絶することなしに未来はない。そんな予感が共有されているからではないか?
『アースデイ、私たちは悔い改めるべきだ』を書いたヒュー・ロバーツ氏は、ドイツの哲学者マックス・シェラーを引用して、「悔い改めには、マンネリ化した歴史の連鎖を断ち切る強烈な力がある」と言う。宗教世界で言う罪の悔い改めよりずっと広い意味合いだ。シェラーによると、「悔い改めは精神世界で、最も革命的な力」ですらある。

「それは身を砕くような苦痛に違いない。しかし、悔い改めの後には平和が訪れ、地平が一気に拡大される。未来は尻つぼみになる一方だったのが、広々した可能性のスペースへと導いてくれる。」

コロナ後にパラダイムシフトが起こるのか?僕がもし疫病を生き延びられれば、見届けることが出来るのだが。(2020年4月28日)

 (2020/5/15)