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NHK交響楽団 第1921回定期公演|丘山万里子

NHK交響楽団 第1921回定期公演
NHK Symphony Orchestra, Tokyo No.1921
Subscription Program A

2019年10月5日 NHKホール
2019/10/5 NHK Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:NHK交響楽団

<演奏>        →foreign language
指揮:井上道義
ティンパニ:植松 透、久保昌一
コンサートマスター:ライナー・キュッヒル

<曲目>
グラス:2人のティンパニストと管弦楽のための協奏的幻想曲(2000)
ショスタコーヴィチ:交響曲 第11番 ト短調 作品103「1905年」

 

今回のプログラム、井上道義の身体表現・音楽牽引力に見惚れつつ、それだけでない、たくさんのことを感じ考えた。とりわけ「リズム」について。

F・グラス、井上の指先が猛烈にしなやか繊細ゆえ(バトンなし)、楽器の打撃音が尖らない、だからリズムは刻まれてもゆらゆら感があり2人のティンパニストも素敵に弾むのだ。ティンパニのリズム打点に呼応する管弦、収縮膨張を繰り返すスウィングの波、快感!であるのだが、気づく。楽員の揺れ、弾み具合の差。
チェロ、コントラバスの首席2名思い切り大揺れ(ジャンル越え活躍の方々だし)、なのだが、Vnセクションはほぼ揺れない。コンマスも揺れない。弾く音型や弓動ゆえと理解はしても、この微妙な差はなんだ?
第2楽章ティンパニのゆるやかなリズムと弦の流れ、音の河・音の帯に静かに降りてくる管の音句が澄んだ美しさで天使の羽のごとく。蛇行のち静寂からのカデンツァはソリストの腕の見せ所、両者ダイナミックかつ精妙な打奏と響きのさばき具合にホール大喝采(は流れの都合上できないが気持ちはそう)。再びリズム交差の終章、総勢押しにかかっての「盛り」であれば、ぴしゃり宙打つ最後の一音に飛びつく歓呼は宜なるかな、ソリストへの絶賛の嵐は言うまでもない。
さて前述の「微妙差」、筆者に去来したのは80 年代当時人気のジョルジュ・ドンと、彼を中心に円陣で踊る日本人ダンサーの『ボレロ』でのリズム拍点(刻み)のちぐはぐ。しなうドンの描く弧と直線的に上下する我がダンサーたち。騎馬民族と農耕民族の感覚の違いと思い至ったが、はるか昔話、でも、似ているようで、そうでないようで。
見渡すに低弦特筆2名は古参だが、オケ全体はそれなりに若い世代、ロック・ポップス・アニメ・ゲーム音楽なんでもアリの多様な「ノリ」の音楽環境で育ったはず。無論どんな演奏でも各人ノリの高低はあり、それが音楽への共感度と比例するのかしないのか、個々人のリズム感覚・身体・楽器とそれを扱う動作の違い、あるいはデジタル・アナログ感覚の差も?などなどオーケストラというのは実に不思議な集合体だ、と、それもいたく面白く聴いた。文化・時代・社会・個々人の複雑な重層がそこに「見える」気がするが、目を閉じ、ただ音を聴けばそんな「差」は判別できぬ。
ともあれ、個体差を呑む「一つのリズム」、そうしてグラスの連綿は人を「溶かす」。

では、ショスタコーヴィチはどうか。《血の日曜日事件》であれば「溶かす」わけがない?ティンパニ、小太鼓の連打、管弦の刻みにより各シーンを克明に描くこの作品に脈打つリズムはザクザク「切断」に近い。が、「権力」とそれに立ち向かう「民衆」という図式であれば双方にそれぞれの「溶かし」があり、その巧みな配列が本作のリズムの肝とも思える。
『王宮前広場』に流れる沈鬱な弦の調べ、地底をせり上げるごときティンパニ連打、彼方からトランペットのファンファーレが届く。フルート2本の<聞け>は清明な色調、低弦の<夜は暗い>がその上に塗り重なる。『1月9日』からの引用2曲中<おお、皇帝われらが父よ>の繰り返しの大波で、グラスでは動かなかったVnセクションが弓ひく度ごと力こもり熱が入る、これは情念的揺動「溶かし」の別バージョンだ。さらにディミヌエンドから突如の小太鼓3連符とともに始まる一斉射撃での激越な連射にくだんのVc氏は噛み付かんばかりの形相、オケ全員夢中な上下動となるのであれば、こちらはいわば暴力的煽動による「溶かし」に違いなかろう。ただ井上、いつになく(というのもおかしいが)エフェクト盛りに走らぬ。終尾にかげろう<聞け>の断片の儚き美。
『永遠の追憶』低弦のピチカートの上に浮かぶ<同士は倒れぬ>の粛々たる弔歌、凍てた情念が蒼黯い炎を上げ<こんにちは、自由よ>へ、そして前章の回顧がふっとよぎる。アタッカ、強奏金管ユニゾンの眼を射る輝き<圧制者たちよ、激怒せよ>から突入する『警鐘』での勇猛な刻みと炸裂音もまた煽動系「溶かし」で、聴き手もガンガン背を押され音爆投下に加わって行くわけだ。イングリッシュ・ホルンの切々たるソロに瞑目、から一気にシンバル、チューブラー・ベル連打総動員への突進の頂点、最後の音で井上はスッと胸で両手を軽く握り虚空の一点を仰いだ、祈るように。
筆者の眼前に浮かんだのはレニングラード(1988/当時はその呼称)の瀟洒な宮殿と広場の石畳、そこで出会った若きゲルギエフ、ペレストロイカの風、足裏に覚えたロシアの血腥い歴史、たぶん渋谷で観たエイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』、さらに中国の天安門広場、昨今の香港若者たちのデモ、そして私たちを取り巻く「表現の不自由」。

グラスとショスタコーヴィチ、両者にあるリズム媚薬「溶かし」作用をどう扱うか。
弾圧と抵抗という「闘争」にある「力」。私たちはいつでも力に「溶かされ」るし、その快感も知っている。
ミニマルが生まれた時代、ベトナム戦争の泥沼を前にアジアへ傾倒した米の若者たち。衝突がエスカレートする香港の「自由」。グラスがガンジーの非暴力をどう咀嚼したかは知らぬが、当夜の2作にあったリズムの本然から井上が何を引き出そうとしたか。
も一度、最後、胸で優しく握った彼の両手と空(くう)への眼差しを想う。
あれは、軽やかな「非・力」すなわち「大悲」への舞でもあったのか。

追記)井上道義は10月4日、第39回「有馬賞」を受賞。

 (2019/11/15)


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<Artists>
Conductor:Michiyoshi Inoue
Timpani:Toru Uematsu / Shoichi Kubo
Orchestra:NHK Symphony Orchestra, Tokyo
Concertmaster:Rainer Küchl

<Program>
Philip Glass:Concerto Fantasy for Two Timpanists and Orchestra(2000)
Dmitry Shostakovich : Symphony No.11 G minor Op.103 “The Year 1905”