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新日本フィルハーモニー交響楽団 ジェイド〈サントリーホール・シリーズ〉#581|齋藤俊夫

新日本フィルハーモニー交響楽団 ジェイド〈サントリーホール・シリーズ〉 第581回定期演奏会

2017年11月29日 サントリーホール
Reviewed by 齋藤俊夫(Toshio Saito)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi )

<演奏>
指揮:デニス・ラッセル・デイヴィス
オルガン:松居直美(*)

<曲目>
バレエ音楽『エッフェル塔の花嫁花婿』
I.オーリック:序曲(7月14日)
II.ミヨー:結婚行進曲
III.プーランク:将軍の話(2本のコルネットのためのポルカ)
IV.プーランク:トゥルーヴィル海水浴場の女(絵葉書)
V.ミヨー:殺戮のフーガ
VI.タイユフェール:電報のワルツ
VII.オネゲル:葬送行進曲
VIII.タイユフェール:カドリーユ
IX.オーリック:リトルネッロ
X.ミヨー:婚礼の終わり

フランシス・プーランク:『オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲』(*)

セルゲイ・プロコフィエフ:交響曲第6番変ホ短調

 

『エッフェル塔の花嫁花婿』はジャン・コクトーが台本と演出を手がけ、振付にも関わり(振付本担当はバレエ・リュスから脱退したジャン・ボルラン)、そしてフランス6人組、すなわち、ジョルジュ・オーリック、ダリウス・ミヨー、フランシス・プーランク、ジェルメーヌ・タイユフェール、アルチュール・オネゲル、ルイ・デュレ(しかし彼は本作の作曲を途中で放棄した)の作曲による奇妙奇天烈なバレエ作品。もっとも今回はバレエも舞台装置もなく、音楽だけでその奇想を聴く機会となった。

第1曲冒頭から複調を用いた乱痴気なファンファーレであったが、しかし朗らかで陰りがないのが(ただの偏見かもしれないが)、パリジャン的である。複調の技法はオーリック、ミヨー、プーランクの曲で使われ、冗談とも本気ともつかないというより、おそらくほぼ100%冗談の雰囲気を発散させていた。
奇想という点ではミヨーの第5曲「殺戮のフーガ」の、確かにフーガなのだがそれとは関係なく妙な所でトゥッティの「ジャン!」という音が挟まれ、最後は「ジャーン!」の勝ちになるという音楽が一番か。逆にタイユフェールの2曲は場違いなほど正統派な舞曲で、何故この曲集に入っているのかわからなかったが、あるいはバレエと組み合わされれば異化的な面白さがあるのかもしれない。またオネゲルの「葬送行進曲」もミヨーらの音楽とは異質な極めてシリアスな葬送行進曲であり、6人組がこの後それぞれの道に別れていったことがわかるような気がした。
曲集の最後はミヨーの、「馬鹿騒ぎ」としか言えないような、しかし少し不思議な和音のトゥッティによる「ジャンジャカジャーンジャーン!」で終曲。サティが「新しき若者たち」と呼んだフランス6人組の個性と性格がはっきりとわかる佳品であった。

次は(元)6人組のプーランクの『オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲』。冒頭から神の怒りのようなオルガンのソロ、そしてそれに続いて人間の悲しみを表現したかのような弦楽合奏。先の『エッフェル塔の花嫁花婿』とは全く性格の違う厳粛な音楽。オルガンと弦楽の合奏により光輝くような音響が鳴り響いても、それはまるで断罪の光のよう。途中で安らかな楽想も混じるのだが、それもあくまで「慰め」として聴こえる。そして繰り返される冒頭のオルガンの怒りの和音!擬バロック的作品であるが、1936年から1939年という「第二次世界大戦直前の時代」を刻印した音楽を聴く、忘れるべからざる体験となった。

最後はプロコフィエフの『交響曲第6番』。しかし、筆者は非常な違和感を感じた。プロコフィエフなのに「なめらかすぎる」「尖っていない」と。繊細とも言えるのだが(第2楽章中間部の弦楽合奏の部分など実に美しいレガートだった)、プロコフィエフの息の長いフレーズと、それに差し込まれる鋭い「異物」的楽想の対照がなく、音楽的焦点が合っていない。音楽がクレシェンドして頂点に達しても「痛快」ともいうべきプロコフィエフのあの硬質な強い音が鳴り響かない。
第3楽章のヴィヴァーチェも打楽器と金管が多めながらシューマンかメンデルスゾーンか、いや、ドイツロマン派というよりフランス印象派以降か、という「なめらかさ」で、フランス的に小洒落ていて、ロシア的に荒ぶるところがない。終曲の突然の悲劇的展開も微温的で、衝撃が薄かった。
チラシのキャッチコピーには「今宵は、フレンチのコースなど」とあったが、プロコフィエフの『交響曲第6番』をフレンチのコースとして演奏するのは無理があったのではないだろうか。意欲的なプログラムであったが、いささかマリアージュに難ありと感じた。