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小倉美春が寄せる光粒子世界への深思 シュトックハウゼン ピアノ曲I-XI全曲演奏会|秋元陽平

小倉美春が寄せる光粒子世界への深思 シュトックハウゼン ピアノ曲I-XI全曲演奏会
Miharu Ogura plays Stockhausen’s Klavierstücke I-XI

2021年03月14日 東京コンサーツラボ
2021/3/14 Tokyo Concerts Lab.
Reviewed by 秋元陽平(Yohei Akimoto)
Photos by & 写真提供:Ratel Story inc.  

<曲目>        →foreign language
シュトックハウゼン 『ピアノ曲』I-XI
(アンコール:『ピアノ曲』XIV)
<演奏>
小倉美春(ピアノ)

 

わたしがシュトックハウゼンの作品を初めて聴いたのは20歳ごろ、つまり彼が亡くなってからのことだ。わたしよりさらに年若いであろう主催者のピアニスト・小倉美春も、プログラムノートの言葉を借りればいわば「記念碑化」−−もっともこれは一般に「作者の死」の前から段階的に始まるものだが−−以降に彼の音楽に接した世代だろう。80年代以降、論集の訳者はじめ心ある批評家や作曲家、音楽学者が日本における「シュトックハウゼン・ボイコット」を憂慮していたことも、いまやすでに日本音楽史上のエピソードの一つといった趣がある。時間の経過は、もちろんある種の見通しをよくしてくれる。最近では松平敬の書籍『シュトックハウゼンのすべて』と数々の実演をはじめ、丹念な研究の蓄積、ネットでアクセス可能な情報の増加は、作家の用いた技法や理念の変遷、そしてその変遷を貫く「性格Charakter」、さらにその性格だけがもたらしうる、芸術家の内なる多面性を照らし出してくれる。

いっぽうこの見通しの良さによって、わたしたちはますます、トータル・セリエルを「事後的に」聴くことの本質的な困難に直面するとも言える。果たして一体「何が」彼を、彼らを駆り立てたのか、という体感の困難だ。もちろん教科書的に言えば、作曲家の「手技」上の−−「メチエ」内的な行き詰まりの意識と、ヨーロッパ芸術の正典とアウシュヴィッツの結託に結晶化した「文化の野蛮」を告発する歴史意識の絡み合いということになるのだが、そうは言ったところで、シュトックハウゼンの、おおよそ60年から70年も前の、わたしの祖父母の青春時代に鳴っていた音楽の、みずから歴史を区画しようとする力強さに感じる戸惑いをいささかも拭い去ることはできない。

さて、小倉美春による本公演は、こうした戦後前衛をめぐる通説の意味を、全く正当にも、あらためて「耳をそばだてる」ことを経由して考えさせるものだ。まずなによりもピアニスト自らが終始、意識を研ぎ澄まし耳をそばだてることによって、聴衆は、ある種の演劇的効果も伴って「一緒に聴く」ように自然と促される。芸術家の歴史意識が結果的に作品の中に沈殿するのであれば、プログラムノートにあるように、シュトックハウゼンの「ピュア」な音響に付き合うといっても、聴取の歴史性を忘れることにはならない。聴くものはその息の詰まる試みに付き合って、彼の「宇宙」や「星座」といった−−やや危険な−−メタファーを真に受けずとも、作曲家がおのれのメチエのなかで格闘したその痕跡にたどりつき、さらに結果としてしばしば戸惑いへと連れて行かれるのであれば。それにしても、小倉の演奏によって改めて気づかされたことだが、そもそもシュトックハウゼンの音楽のうちに、演奏家自身に聴くことを促す構造がある。それぞれの音群のあいだにおかれた静止には、ただ抽象的あるいは内省的な空白というよりも、生理的必然性にもとづいた空白、作曲家の言葉を借りれば「フィールド」に近いところがある。これはピアノ曲に直接関係する文脈ではないが、演奏の現場に対するシュトックハウゼンのリアリズムは、彼の著作の随所に、たとえば以下のような自問自答にも感じ取ることができる。

「それにしても休止とは何か? 休止のフィールドサイズは、演奏されたサウンドが自然に鳴り止み、次のサウンドの準備になお多少の時間を必要とするような場合に現れるだろう。これらの準備は思考上のものであるか(楽譜を解読しなければならないとき)、または実践的なものである(様々な共鳴体を準備するため、あるいは機械的な「録音」等に要される行為i)

小倉はまさしく、休符をただ待っているのではなく、休符を自分に従わせるのではなく、過不足ない身体的時間を聴衆のわたしたちと共有していた。

18世紀の偉大な生理学者ビュフォンは、教会の鐘がいちど打ち鳴らされたときに、それをひとつの音を聴いて「いま1時だ」と思うか、それとも午睡の物憂さのなかで、その振動のうちに複数の音を聴いて「いまは5時だ」と勘違いするかは、純粋に習慣の問題であるとまで言う。シュトックハウゼンは、音高と音価を究極的に相互転換可能なものと見なした。それは彼が聴取の現象学に関心を払いつづけた作曲家であり続けたこと無関係ではない。音楽が時間の組織化≒空間的集約ならば、この集約は、間隙の創造、すなわち「演奏家と、演奏された音のあいだの」インタラクションを可能にする。つまり沈黙は、シュトックハウゼンにおいてある種極めて人間的な設計の産物である。音楽的時間のなかに何らかの「身振り」を導入しようという発想といえば例えばブーレーズをはじめ枚挙に暇がないが、シュトックハウゼンにおいて沈黙はとくに実践的な趣がある。小倉がトークの中で「耳のエチュード」と言った通り、シュトックハウゼン自身が並外れて注意深い作曲家なのだと改めて思い知らされると同時に、わたしはその休符の扱いに、いわば体温を感じたのである。演奏も作品の密度も後半にピークを迎え、「ピアノ曲X」の次第に増えていく沈黙のなかで、梵鐘のように重なった音高のあわいのなかで、ぼんやりとまだ終わって欲しくないという思うくらいには、聴いていて疲労することがなかった。もっともこの心地よさのなかで、冒頭の「戸惑い」が再び頭をもたげてくるのだが。

いずれにせよ、このようなプログラムにあっては、自ら発した音に見向きもしない持続への没頭、陶酔は避けられなければならない。ジュネーヴ、パリ、東京でピアノ部門の国際コンクール予選を聴くとしばしば、とくに速いパッセージなどで、うっかり演奏者の身体的記憶が解放されてしまい、セリー音楽であってもffやppのニュアンスが一瞬19世紀的音楽に植民地化されてしまうケースに遭遇する。抽象化作用をうけた音列のただ中に『夜のガスパール』なりリストの練習曲なりの連符のニュアンスがききとられるのはまことに奇妙だが珍しいことではない。
この点、小倉はこうした悪弊から美しく切り離されている。こうした記憶の負債の代わりに彼女のタッチに基調をもたらしているのは、しぶきのように素早く散っていく小音符のppにいたるまで、その残響を聞き逃すまいとする観測者の真摯な注意深さなのだ。

座った位置も関係することは充分承知でひとつ言えば、ハーフ・ペダルの効果をはじめとするピアノの音響が、PAのリバーブによってやや曖昧になってしまうような印象を受けた。全体に低音に比して高音があまり響かないという問題もある。だが会場の広さからいってPAなしでは済まされないのだろうし、このような技術的さじ加減にはつねに困難がつきまとうことは確かだ。いずれにせよ、若くしてテクニックを持つ演奏家はもはや珍しくない現代であっても、こうしたコンサートを企画、立案、トークまでこなし、同時にSNSを介した新しいアウトリーチの道を切り開き、演奏によって研ぎ澄まされた時間=空間を作り出すという八面六臂ぶりは並大抵のことではない。なにせこうした演奏会だと聴衆からしてどこかものものしくなりがちであり(!)、「予習」充分な顔ぶれが多いとしても、やっぱり親切な聴き所のレクチャーというのはあるとないでは大きく違う。今後、複数の時代を横断するプログラムを聴くのも楽しみなところだ。

i).「…いかに時は過ぎるか…」清水穣訳、『シュトックハウゼン音楽論集』、現代思潮新社、1999/2010、p.158。ただし、引用元では「休止」の字に傍点あり。

(2021/4/15)

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秋元陽平(Yohei Akimoto)
東京大学仏文科卒、同大学院修士課程修了。在学中に東大総長賞(学業)、柴田南雄音楽評論本賞などを受賞。研究対象は19世紀初頭のフランス語圏における文学・哲学・医学。現在ジュネーヴ大学博士課程在学中。

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<pieces>
Stockhausen : Klavierstücke I-XI
(Encore piece : Klavierstuck XVI)
<player>
Miharu Ogura (Piano)