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メシアン作曲 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」|能登原由美

メシアン作曲 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」
全3幕8景 演奏会形式 フランス語上演・日本語字幕付
全曲日本初演 

20171123日 びわ湖ホール 大ホール
Reviewed by 能登原由美Yumi Notohara
写真提供:びわ湖ホール 

<出演>
指揮|シルヴァン・カンブルラン 

天使|エメーケ・バラート
聖フランチェスコ|ヴァンサン・ル・テクシエ
重い皮膚病を患う人|ペーター・ブロンダー
兄弟レオーネ|フィリップ・アディス
兄弟マッセオ|エド・ライオン
兄弟エリア|ジャン=ノエル・ブリアン
兄弟ベルナルド|妻屋秀和
兄弟シルヴェストロ|ジョン ハオ
兄弟ルフィーノ|畠山茂 

合唱|新国立劇場合唱団
   びわ湖ホール声楽アンサンブル 

合唱指揮|冨平恭平 

オンド・マルトノ|ヴァレリー・アルトマン=クラヴリー
         大矢素子
         小川遥 

管弦楽|読売日本交響楽団 

 

「聖なる音」を聞くことはできるだろうか。たとえば、神の世を説く司祭の声、聖堂内に満ちるクワイアの歌、響き渡る鐘の音・・・いや、そうした「儀式」の音ではない。私たちの胸をじかに打ち鳴らす「聖なる音」、私たちの魂を呼び止める「聖なる声」だ。 

清貧の祖、聖フランチェスコの物語。神への愛に溢れ、鳥の声を理解するという聖フランチェスコに、メシアンは己の姿を重ねたのかもしれない。とはいえ、「聖なるもの」をいかに音楽で表すことができるのだろう。あるいは、神を信じない者はそれをどう受け止めればいい?キリスト教徒ではない私が『マタイ受難曲』に向き合うように?回心、奇蹟、聖痕と、人智の及ばぬ世界。音楽が壮大となるのも無理はない。その全曲日本初演。メシアン没後25年でようやく実現した。 

演奏会形式による上演。この公演が本作初体験となる私にとってはそれが正解だったように思う。照明も衣装もシンプル、所作は最小限に抑えられ、そのため舞台から聞こえてくる音と、セリフを映し出すスクリーンに意識が注がれることになる。音と言葉だけ。それで十分だ。余計な情報はいらない。脳裏に浮かび上がってくる映像は、色や形を留めることなく絶えず流転し続ける。 

キリストへの愛のために自己を克服しようとするフランチェスコ(ヴァンサン・ル・テクシエ)。私たちの前に現れた時にはすでに迷いがなかった。清廉で、威厳さえ感じられる声で朗々と語り続ける。この声に語りかけられると、誰もがそのうちに隠す弱さを露呈させてしまうのかもしれない。修道士レオーネ(フィリップ・アディス)の、自信のないくぐもった声。あるいは重い皮膚病患者(ペーター・ブロンダー)の声音の、なんと刺々しいことか。罵り、恨み、苦しみの言葉とともに発せられるその声には思わず耳を塞ぎたくなる。だがその声をも優しく包み込むことこそフランチェスコの願い。皮膚病患者への接吻によりフランチェスコの回心が遂げられる瞬間、聖へと転じるその瞬間の音の映像は、その後も私の頭に焼き付いて離れることがない。 

音は単なる物理的な現象ではないのだ。扉を激しく叩く音。なぜそれほど荒く激しく打つのか。魂が何度も揺さぶられるかのようだ。その音の主人は美しい天使(エメーケ・バラート)。神の摂理を問いかけるその声は、甘く透き通ると同時に冷徹でもある。マッセオ(エド・ライオン)、ベルナルド(妻屋秀和)のみならず、私自身の胸をも突いてくるのは、私の心の状態の所以なのだろうか。 

鳥たちに説教を与える聖フランチェスコ。メシアン自身を投影した場面でもあるだろう。森の中で一人佇む聖フランチェスコとメシアン。その光景を想像してみる。ただし、私にとって森は森でしかなく、鳥の鳴き声は物理的な音の現象としか聞こえていないにちがいない。たとえばここでは鍵盤打楽器、木管楽器、合唱による音響効果、というように。その現実を振り払い、再び二人が浴したはずの鳥の園に、五感、いや六感を開放してみる。密やかに、静かに湧き上がっていく音の群れ。その響きは残像を伴いながら幾重にも重ねられていく。どこにも隙間はない。木洩れ陽の間にさえそれを埋め尽くすかのような光の音がある。あらゆるところに光と音が満ちている。鳥が神の使者であるとするならば、これが「聖なる音」の世界なのであろうか。 

その後に続く聖痕も、聖フランチェスコの死の逸話も私にはほど遠い。けれども、確かに「聖なる音」、「聖なる声」は存在し、メシアンにはそれが聞こえていたのだろう。あるいはこの作品の伝道者ともいえるカンブルランにも。ただし、私にはまだ聞こえていない。ただこの体験、この出来事を通して、その音の世界を遠くから垣間見ることができたように思う。