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LEO 箏リサイタル|丘山万里子

LEO 箏リサイタル 第156回リクライニング・コンサート
LEO KOTO Recital

2021年2月25日 Hakuju Hall
2021/2/25 Hakuju Hall
Reviewed by 丘山万里子(Mariko Okayama)
写真提供:Hakuju Hall

<曲目>        →foreign language
吉松隆 : すばるの七ツ op.78より(25絃)
  月MOON 火 FIRE 水 WATER 土Earth 日The SUN
八橋検校 : みだれ(13絃)
J.S.バッハ : 無伴奏ヴァイオリン・パルティータ 第2番 ニ短調 BWV 1004 より アルマンド(25絃)
ケージ : ドリーム(17絃)
沢井忠夫:楽(13絃)

<アンコール>
半田弘:さくら替手五段(13絃)
今野玲央(LEO):空へ (13絃)

使用楽器:13絃2種、17絃、25絃

 

筆者は邦楽に関しては無知そのものだ。昔ウィーン、ドイツに居た時、あちらの人に聞かれるのは日本の伝統文化のことばかりで、茶道、鼓はかじったもののいずれもすぐと撤退(免状だの会だのにやたら費用がかさむ)、能も苦手で、伝統文化公演など歌舞伎以外は70年代の現代邦楽シーンでちょろっと触れたぐらい。であるからほとんど語るものを持たなかった。
反省すべきであるのに、その後も日本文化の美学・思想本ばかりあさり、実演に足を運ばなかったのは、要するに退屈してしまうのだ。クラシックを退屈、という人と同じ感覚だろう。別段クラシックエリートコースを歩んだわけでなく、幼少からピアノを学習、音楽美学に興味があって音大に進んだだけの背景しか持たないし。

LEO、吉松隆とバッハとケージを箏で弾くという。しかも1時間、リクライニングであれば、退屈しても心地よい時間になるかも、と行ったのである。ハクジュはコロナ後初めて足を運ぶが、市松模様でなくハクジュモデル。横は普通に詰め、前後一列飛ばし。全席リクライニングにセットを、これじゃ LEO君が見えん、と普通に戻す人々があちこちで椅子をガタガタ困惑する姿に、このホールお初なのだな、と了解する。素敵ではないか。多様な客(筆者も含め)がいてこそ、豊かな文化生活なのだ。
東京藝大在学中(1998生)とのことで、友人と思しき今風若者群と年配邦楽連とが入り混じる客席。
横浜インターナショナルスクール9歳時に箏と遭遇、沢井門下となる。全国小中学生箏曲コンクールグランプリ(14歳)などの受賞歴、CDデビュー(19歳)、TV出演もしばしばであれば、ファンもすでにいて当然だ。

颯爽とお洒落なモノトーンファッションで現れたLEO、隣席おばさま連から「わあ」と密かなため息。確かにかっこいい。
吉松隆『すばるの七ツ』から5曲「月、火、水、土、日」はいかにも吉松らしい抒情ロマン路線。静夜の月、夜陰の燭火、水面(みなも)の水輪、一転急流激掻にアタック、ここは聴かせどころだ(現代風)。終曲はきっぱりした音調に終尾たおやかな弱奏を忍ばせ。現代音楽作曲家たる吉松の位置そのままの作品で、箏の幻想美言うことなし。
つい、ながらの座・座庭園コンサートでの尺八・クラリネットを思い出し、あそこで聴けたらなあ、と思う。
八橋検校『みだれ』とバッハ『アルマンド』は同時代、とLEO、当日使用楽器3種の説明も入り、初心者にはありがたい。
そのバッハ。聴きなれたあのバッハが!まるきり違う世界だ。楽器というのは、これほどに自らの厳然たる歴史世界を身裡に抱え、かつしなやかに弾き手に、書き手に、身を沿わせ得るものなのか。それに撃たれた。アルマンドは舞曲だがヴァイオリンによる流麗とは異なり、撥弦の余情の綾が微細な表情を生み、驚くほど多彩多様な声となって立ち現れる。つまりこの楽器の持つ抑えがたい情緒が響きに纏わり、まさに繊細極まりない「声」(さざめき)となるのだ。しかもそれは、検校の『みだれ』での1音1音に含まれる烈しい主張(内実の強靭さ、であって、大声、西欧のffとは違う)やみっしりした質量、いかにもな情緒纏綿、あるいは情念噴出とは別の不可思議な音色音響世界。万華鏡のようでありながらどぎつさがなく、いつまでも浸っていたい音調だ。どうせならシャコンヌもやってくれ!どんな別世界が拓けるのか、と切に思った次第である。バッハはどうやってもバッハであり、かつ、どのようにもなる。その凄さをも改めて知る。

これに比すれば、ケージなど何ほどのもんじゃい、だ。革新プリペアド・ピアノ『ソナタとインターリュード』(1946~48)とほぼ同時期のピアノ作品で、鈴木大拙の禅への傾倒最中であればこんなもんだろう、サティみたいでもあるし。そのあまりの凡庸に(彼からアイデア抜いたら何が残る?)、楽器に「参りました」とひれ伏すケージが見え、笑ってしまったくらい。作品力の弱さ、とはこういうものだ。言ってしまえば、吉松だってそのレベル。


最後を飾る沢井は、それこそ70年代現代邦楽の旗手だった人ゆえ、《無窮動》の駆動性などなかなかに斬新であったし、種々の超絶変奏も十分楽しんだ。

検校とバッハは同時代とのことだが、正確には検校(1614~1685)バッハ(1685~1750)つまり、検校没年にバッハ生誕で、『みだれ』作年不明江戸前期、『パルティータ』はケーテン宮廷時代(1720)と重ねると彼我の生きた時代と音楽の姿が見えよう。
『すばるの七ツ』(1999)、『ドリーム』(1948)、『楽』(1988)と並べると、圧倒的に古典が光る、楽器が輝く、のはなぜか。
は、おいておくとして、沢井が(だけでないが)前衛であった時期、作曲家も演奏家も肩に力入ったゴリゴリ日本回帰感で筆者にはそれが「何だかなあ」だったし、一方で伝統演奏もあい変わらず退屈だったしで、結局触れずにここまで来た領域。
若きLEOが、そんな日本の音楽シーンなど知らぬ気に、さらりこういう仕掛けで聴衆の間口を広げるのは、いっそ清々しい。何を聴き取るかは人それぞれで、それぞれの意味を持ち帰ることができるのだから。筆者のように回顧しつつ愛でるのも一興。聴き手こそ、好奇心をいつも持つことが大事、と知ったマチネであった。

 (2021/3/15)

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<Performer>
LEO
<Program>
Takashi Yoshimatsu : SUBARU op.78
Kengyo Yatsuhashi : Midare
J.S.Bach : Allemande from Violin Partita No.2 in d minor BWV 1004
Cage : Dream
Tadao Sawai:GAKU

<Encore>
Hiroshi Handa:Sakura Kaede 5dan
LEO:Sorae