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ウィーン留学記|ウィーン国立歌劇場150周年(後編)――影のない女|蒲知代

ウィーン国立歌劇場150周年(後編)――影のない女
Das 150-jährige Jubiläum der Wiener Staatsoper (zweiter Teil)――Die Frau ohne Schatten

text & photos by蒲知代( Tomoyo Kaba)

2019年5月15日、舞台リハーサルを見学した後、カタリーナさんに連れられ、ウィーン国立歌劇場内のアーカイブに向かった。カタリーナさんはアーカイブの責任者である。
図書館のようなところを想像していたが、きわめて小さなオフィスだった。中に入ると、男性がパソコンに向かって作業している。カタリーナさんと話し、私と握手を交わすや否や、すぐに仕事に戻ってしまった。そこにまた別の男性が現れ、カタリーナさんに今までどこにいたのか尋ねていた。忙しいので、持ち場を抜けないでほしかったのだろう。とにかくアーカイブの仕事は本当に忙しいようだった(そんな多忙な時に、私を案内してくれたカタリーナさんには感謝しかない)。
隣の部屋が本格的な作業場だが、机がくっつけられ、最大4人が作業できるようになっていた。指揮者が楽譜に指示(解釈)を手書きで書き込んだものを渡されるので、パート譜に書き入れて配布する作業が必要とのこと。全パートの楽譜を作らなければならないので、大変な量だ。カタリーナさんの同僚の机の上には、次のプルミエの『オテロ』(初日は6月20日)の楽譜があり、まだ完成していなかった。
カタリーナさんたち「ライブラリアン」の仕事は、楽譜への書き込みだけではない。例えば、舞台リハーサルのさい、カタリーナさんは来シーズン新演出のオペラ『真夏の夜の夢』(ブリテン作曲)のスコアも持参し、オーケストラの団員とアインザッツ(音の出だし)の相談をすると話していた。10月に上演される作品なので、早め早めの準備。とはいえ、夏季休暇も挟むし、オーケストラが各地の音楽祭に出張することを考えると、僅かな時間でも有効活用しなければならないのだ。
さて、アーカイブにはもう一部屋あり、書庫になっていた。本棚には楽譜がずらり。カタリーナさんは、ティーレマン氏が先ほどまで使っていた初演の楽譜を元の場所に戻した。楽譜を管理するのもカタリーナさんたちの仕事である。同じ場所には『トリスタンとイゾルデ』の楽譜もあり、青字の書き込みはグスタフ・マーラー(1860-1911)の手によるものだと教えられ、驚いた。赤字の書き込みもあったが、マーラー以降の指揮者が楽譜を使用した時に書かれたものとのこと。マーラーは1897年から1907年まで、ウィーン国立歌劇場の芸術監督(総裁)を務めているが、楽譜の中のマーラーに出会えたことで、マーラーの存在がとても身近に感じられた。
舞台リハーサルに、アーカイブ見学。あまりの感動に、歌劇場の外に出た後しばらくは放心状態に。一生忘れられない日になった。

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2019年5月25日のウィーン国立歌劇場

そして迎えた5月25日。ウィーン国立歌劇場150周年記念日である。
当日は午前中に記念のコンサートも行われ、ラジオで中継された。
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の『影のない女』の初日公演は午後5時30分から10時まで。ノーカット版である。
開演1時間前に歌劇場の中に入り、窓口でチケットを受け取ると、記念日のおまけが付いてきた。スパークリングワインの無料券。上演開始まで、歌劇場内のビュッフェで使えるとのことだったので、その足で向かった。

歌劇場の正面テラス

しかし、まだあまり人がいなかったので、ビュッフェを通り抜けてテラスに出てみることにした。歌劇場の建物の正面部分に位置しているので、正面の5体の像が見ているのと同じ景色を楽しむことができる。
すると、後から知っている人が入って来たので、思わず声をあげてしまった。立ち見の常連のアメリカ人のおじいさん。毎年半年間、音楽鑑賞のためにウィーンに滞在している。知り合ったのは、楽友協会で行われたルドルフ・ブッフビンダーのリサイタルでのこと。それ以来、歌劇場の立ち見で会う度に英語で話しかけてくれる。いつもは一人だが、この日は娘さんらしき女性と一緒にいた。娘さんの写真を撮っていたので、ついでに私も自分のカメラで撮ってもらい、そのお礼に、先ほどもらったワインの無料券をプレゼントしたら喜んでもらえた(鑑賞前にアルコールを飲むと、私は眠くなってしまいそうだったからである)。
そして、上演30分前からマーラーホールで作品解説を聞いたあと、席に着いた。
観客席が暗くなると、舞台上に歌劇場総裁のドミニク・マイヤー氏が登場。ふだんなら指揮者または歌手のキャンセルかと身構えるところだが、マイヤー氏は悪い知らせではないと言って笑いを取り、歌劇場の歴史を振り返った。
「かつて皇帝はミッテル・ロージェ(皇帝専用席)にいましたが、今は舞台にいます。」
マイヤー氏のジョークのとおり、『影のない女』には皇帝(ステファン・グールド)が出て来る。皇帝の妻(カミッラ・ニールント)は、霊界の王カイコバートの娘。皇后には影がなく、子どもを生むことができない。このままでは皇帝が石になってしまうことを知り、皇后は乳母(エヴリン・ヘルリツィウス)と人間界に下り、染物師の妻(ニーナ・シュテンメ)の影を得ることにする。子どもが欲しい夫バラク(ヴォルフガング・コッホ)に対し、それを望まない妻。染物師の妻は影を売ることに同意するが、皇后には罪悪感が芽生え、影を奪うことができない。ついに皇帝は石になってしまうが、という話である。
台本作家はフーゴー・フォン・ホーフマンスタール(1874-1929)。第一次世界大戦中に作曲されたという事情を汲んで、演出家のヴァンサン・ユゲ氏は、戦死した兵士たち(原作にはない)を第2幕で舞台に横たわらせた。
『影のない女』はメルヘン・オペラとして知られているが、ユゲ氏は舞台を抽象化して複雑な筋を分かりやすくしていた。第1幕では、舞台上に東洋風の鳥かごの形をした皇帝の寝床が設置され、中で皇后が眠っている。第2幕の染物師の家は雑多な空間。背後には、皇帝の場面に切り替わるための岩壁がそびえ立っていた。第3幕も岩、岩、岩。舞台は地味な配色だったが、その分、乳母の黒い服、皇后の赤い服、染物師バラクと妻の青い服、そして皇帝の孔雀のデザイン襟付きの緑色の服が映えた。映えたのは衣装だけではない。座っていた席の位置の関係で、舞台の左端が見えなかったこともあるが、いつも以上にウィーン・フィルの音色に集中できた気がした(クリスティアン・ティーレマン氏は幕ごとに姿を現すたびに、拍手喝采を浴びた)。
影がない設定の皇后には影があったが、想像力を鍛えよということだろう。スピーカーによって、至る所から声が聞こえたため、メルヘンの世界にいるような気分にさせられたし、楽器の音が魔法に聞こえることもあった。
最後はハッピーエンドを迎える物語。夫婦の幸せに子どもは必要か。幸せが多様化した現代社会において、上演の仕方によっては賛否両論を生みそうな作品だが、今宵は心温まる気分で、拍手を送ることができた。

仮設ステージ

歌劇場の外に出ると、翌日の記念コンサートの仮設ステージの準備が進められていた。コンサートは入場無料で、テレビで中継されたのを見たが、溢れんばかりの人。前日に『影のない女』で歌った歌手たちも出演し、歌劇場の誕生日を祝っていた。
世界中から愛されるウィーン国立歌劇場。次の50年も平和に音楽が奏でられますように。

関連記事:ウィーン留学記|ウィーン国立歌劇場150周年(前編)――舞台リハーサル見学|蒲知代

(2019/7/15)

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蒲 知代(Tomoyo Kaba)
兵庫県神戸市出身。京都大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科修士課程を経て、現在は京都大学及びウィーン大学の博士後期課程に在籍中。専攻はドイツ語学ドイツ文学。主に、世紀末ウィーンの作家アルトゥル・シュニッツラーを研究している。