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ウィーン留学記|シューベルト|蒲知代|

シューベルト

text & photos by 蒲知代 (Tomoyo Kaba)

私が京大の指導教官に出会ったのは、大学に入って初めての夏休みのことだった。専攻は大学2回生の秋に決めるようになっていたので、夏休みに学部1回生向けの研究室分属ガイダンスがあり、併せて研究室訪問が実施された。英語の教員になるつもりだった私は、迷わず英米文学専攻の研究室を訪問したが、時間に余裕があったので、ドイツ文学専攻の研究室も訪ねてみることにした(つまり、行かない可能性も十分にあったということだ)。訪問者は私1人。先生2人に優しく迎えられた。緊張している私に先生は、オーストリアの作曲家フランツ・シューベルト(1797-1828)の『魔王』(1815年)を聴かせてくれた。歌詞は、ドイツの文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)の同名の詩。当時の私にとっては怖いだけの音楽だったが、時間が経つにつれて、じわじわと私の心に侵入してきた。脈なしからの大逆転。私はドイツ文学の道に進むことを決めた。

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シューベルトの生家

今年最初の日曜日(1月6日だったので、「公現祭」と呼ばれるカトリック教会の祭日と重なっていた)に、シューベルトの生家に行った。ウィーン大学本館の最寄り駅のショッテントア駅から路面電車に乗って、同大学翻訳研究センターに向かう途中で車窓から見えるのは知っていたが、入場料が無料になる第1日曜日を狙っていたため、ずっと行きそびれていた。以前、(同じく第1日曜日に入場無料になる)ウィーン・ミュージアム・カールスプラッツにオットー・ヴァーグナー展を見に行ったとき、無料日の大行列を目の当たりにしていたので身構えて行ったが、シューベルトの生家は混んでいなかった。中庭に入り2階に上がると、寒い中男性スタッフが外で待機していて、寒さのせいか無愛想に私にチケットを手渡した。
3室あるうちの最初の部屋に入ると、解説文が目に飛び込んで来た。フランツ・シューベルトは14人兄弟の12番目だが、成人したのは5人だけという事実に衝撃を受けた。私の他に若い男女のカップルが見学していて、楽譜などを熱心に眺めていた。窓際の壁にはW・A・リーダーの油絵「フランツ・シューベルト」(1875年)が掛かっていて(ウィーン市内にあるシューベルト最期の家には、J・A・ディアラーが1829年に制作したシューベルト像がある)、私は部屋の中央の椅子に座って絵を眺めながら、備え付けのヘッドフォンで『魔王』(ブリン・ターフェル、マルコム・マルティヌー)を聴いた。シューベルトは31歳の若さで病死しているが、短い生涯の間に数多くの名曲を残してくれたことに感銘を受けた。

シューベルト・シューレ

シューベルトはウィーンで生まれウィーンで亡くなっているので、市内にはシューベルトゆかりの地が点在している。『魔王』を聴いた後、位置的には生家とウィーン大学の中間地点付近にある、小学校「シューベルト・シューレ」にも行った。オーストリア人の友人の一人がこの学校の卒業生であり、シューベルトが教えた学校だと教えてくれていた。石碑によれば、同じ場所に1913年まで旧小学校があり、シューベルトは1818年から1825年の間に、父親の助教員として出入りしていたが、あくまでほんの一時的なものだったようだ。

さて、昨年11月20日に楽友協会の大ホールで内⽥光⼦のピアノリサイタルを聴いた。今回は3曲ともシューベルトだった(ピアノ・ソナタ 第7番 D568 Op.122 変ホ長調、ピアノ・ソナタ 第14番 D784 Op.143 イ短調、ピアノ・ソナタ 第20番 D959 イ長調)。リサイタル・プログラムを全て収録したCD「内⽥光⼦/シューベルト・ベスト」の発売を記念して、昨年10月24⽇の⽇本公演を皮切りに、ウィーンの楽友協会、ベルリン・フィル、イギリスのロイヤル・フェスティバル・ホール、アムステルダムのコンセルトヘボウ、フィルハーモニー・ド・パリで演奏会が行われた。
片手をピアノについて、驚くほど深々とお辞儀をして、椅子に座って眼鏡をかけて演奏を始めた。演奏中はドイツ語で数を数えているという記事を読んだことがあるが、確かに演奏中は口を動かし続けていた(個人的に、内田さんのウィーン訛りのドイツ語には憧れる)。律儀な演奏の仕方だったが、とても軽やか。音の強弱のコントロールが絶妙で、彼女独自のテンポに引き込まれる心地がした。

楽友協会とカールス教会

また、今年1月18日にも楽友協会の大ホールでシューベルトの作品を聴く機会に恵まれた。バリトン歌手のクリスティアン・ゲルハーヘルとピアニストのゲロルト・フーバーのコンビによる、『冬の旅』(1827年)のコンサートである。『冬の旅』は、ドイツの詩人ヴィルヘルム・ミュラー(1794-1827)の詩集に基づいて作曲された連作歌曲集であり、失恋した青年のさすらいの旅の様子を描いている。
ゲルハーヘルはリラックスした様子でピアノに寄りかかっていた。第1曲、第2曲、第3曲、と曲が移り変わる毎に、歌声も表情も大きく変わったが、どこか教え諭すような説得力に富んだ歌い方だった。しかも、曲調にもよるが、温かく、優しく、穏やか。フーバーの演奏にも抜群の安定感があった。『冬の旅』は気が滅入るほど暗い曲というイメージがあったが、ゲルハーヘルの歌い方のおかげだろう、思っていたより暗くはなかったので安心した(とはいえ、混雑した立ち見で聴いていた私は、第5曲『菩提樹』を聴き終わった後、滅多にないことだが、貧血で目の前が暗くなり、しばらくの間その場でしゃがみ込まなければならなかった)。

『冬の旅』は失恋の話だが、留学してから、知り合いの失恋話を聞く機会が増えた。というのも、大抵の場合、遠距離恋愛だからである。現在はインターネット電話などの発達により、たとえ距離が離れていても、容易に連絡を取ることができるが、様々な要因で心の距離も離れてしまうようである(私の周りでは、日本とヨーロッパの遠距離恋愛が成功した例は残念ながら皆無である)。他人事でも、辛い話を聞くと、我が事のように胸が痛むのだが、当の本人の悲しみははかり知れない。
しかしながら、昔或る先生が授業で言っていた言葉を思い出す。「失恋は乗り越えるためにある。そして、この人に出会うために、あの失恋があったのだと納得できる日が必ず来る。」結婚したばかりの先生だったので、大変説得力があった。
『冬の旅』から受ける印象が歌い手によって変わるように、自分の人生が悲劇に転ぶか喜劇に転ぶかは、自分の気持ち次第である。留学を続けていると、時には研究面で悩むこともあるが、ドイツ文学を選んでよかった、ウィーンに来ることができてよかった、と思うことの方が多い。今後も山あり谷ありだと思うが、幼い頃からの夢だった教員になるため、精進していきたい。

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(2019/2/15)

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蒲 知代(Tomoyo Kaba)
兵庫県神戸市出身。京都大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科修士課程を経て、現在は京都大学及びウィーン大学の博士後期課程に在籍中。専攻はドイツ語学ドイツ文学。主に、世紀末ウィーンの作家アルトゥル・シュニッツラーを研究している。