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黒田鈴尊 独演会Ⅱ|藤原聡   

黒田鈴尊 独演会Ⅱ
Rei-sonic Theater
尺八独奏による宇宙の歌

2017年5月26日 トーキョーコンサーツ・ラボ(昼公演)
Reviewed by 藤原聡(Satoshi Fujiwara)
Photos by 林喜代種(Kiyotane Hayashi)

<曲目>
琴古流本曲 雲井獅子
古典本曲 九州鈴慕
Le Printemps de Vivaldi ヴィヴァルディの春/J.J Rousseau&A.Vivaldi
Parlez-moi d’amour 聞かせてよ愛の言葉を/Jean Renoir
Shita-Kiri Suzume/Denis Levaillant(独奏版世界初演)
独奏尺八の為のボレロ「そして、私は風になりたかった……」/青島佳祐(世界初演・公募作品より)
詩曲2番/松村禎三

 

「尺八の名人が、その演奏のうえで望む至上の音は、風が古びた竹藪を吹きぬけていくときに鳴らす音であるということを、あなたは知っていますか?」

と、武満徹は自作曲『ノヴェンバー・ステップス』への注釈で書く。お恥ずかしい話だが、実演にせよ録音物にせよ、筆者は尺八という楽器を自ら意識的に選択してしっかりと聴いたことがほとんどない。武満の件の楽曲にせよ、尺八が目的で聴く訳でもなく、ルーツである古典曲に至ってはなおさらだ。あるいは正月にデパートやらコンビニなど諸々の店でお約束のように耳にする宮城道雄の『春の海』が関の山である。
そんな筆者が、若手(もはや中堅?)の尺八奏者であり、尺八の古典楽曲のみならず現代作品、西洋クラシック曲の尺八へのアレンジ、果てはシャンソンや演歌などまで演奏してしまうマルチな尺八奏者、黒田鈴尊の独演会を聴きに行った。トーキョーコンサーツ・ラボという小ぶりな空間でひたすら1本の尺八から発せられる音と至近距離で対峙する1時間強。プリミティヴな感想で恐縮だが、西欧的な感覚からすればノイズ成分と雑味が乗り、音程や音色が絶えず揺れ動いて一つ所に留まることのない非均質な、常に「間(あいだ)」に浮遊するその音自体に軽く衝撃を受けたのだった。武満の書いた「風」をそのままに受け止めればよいのだろうか。ある種の「違和感」が聴いて行くうちに徐々に快感と感じられて来るようになれば、「西洋という毒」が解毒され相対化されて来た、という事かも知れない。このようなことは、文字にしてみればある意味で当たり前のことだろう。尺八の音くらいは知っていたつもりだ。しかし、これは頭で理解した観念ではなく「体感・実感」である。この差は大きい。どれだけの方が尺八と生でガチンコ対決(笑)をしたことがあるのだろうか。それほど多いとも思われない。となれば、それらの方々も内在的にある種の「開眼」の可能性を秘めているということだ。

見識のない筆者ゆえ、当日演奏された個々の楽曲について詳述する術を持たないのは誠に恐縮だが、余りに有名なヴィヴァルディ『四季』の春を尺八1本で演奏する、というのはさすがにアクロバティック過ぎやしないか、と若干の危惧を抱いていたところ、果たしてそれは現実となったように思う(再度笑)。非常に貧相であった。原曲と比較するな、と言う方が無理だろう。
この日最も聴き応えがあったのは、作曲者自身も来場されて黒田と演奏に際してプレトークを行なった青島佳祐の『独奏尺八のためのボレロ』だ。作曲者によれば、「息を吹き込む楽器において、発生しうる音は全て息の延長線上にあるのではないか」との疑問がこの曲を書かせたのだという。当日のプログラムに添付されていた作曲者自身の解説はいささか長いのだが、筆者が補足しつつ作曲者の言葉に接続するならば、「演奏に際して立ち上がる多様な音を意識的に組織化し、全てが音楽を構成しているファクターであることを明らかにしつつ、楽器と演奏者の関係性を掘り下げることこそがこの曲の目的であった」。
曲は多様な特殊奏法が用いられ、尺八(純邦楽)に疎い筆者ですらそのユニークな音響には惹かれるものがある(ちなみに黒田が公開設定にしているフェイスブック上にはこの曲の楽譜の写真が掲載されているが、楽曲冒頭には「楽器の中に大量の空気を使って(送って?)『ひゆひゆ』と囁く」なんて指示がある)。
誤解を恐れずに言えば、まるでベリオの『セクエンツァ』だ。ではなぜ『ボレロ』か。ラヴェルの『ボレロ』では終盤いきなりハ長調からホ長調に転調するが、普通ではないこの突然の飛躍のためにそれまでの過程が用意されていたように聴き手は感じる。『独奏尺八のためのボレロ』においては、ラヴェルの『ボレロ』よろしく最後には想定外のファンタジーとヴィルトゥオジティに到達することの比喩だろう(『ボレロ』の命名についても作曲者自身が書かれているが、筆者なりにしっくり来る解釈を記述した)。

ところで、黒田の独演会の第3回目はどうやら来年に開催されるようである。筆者のような人間こそ逆に新たな視点を喚起されるという気がするので、少しでも興味が湧いた方は行かれてみてはどうだろうか。新たな感覚の掘り起こしに繋がる気がする。

(付記)忘れてはならないのが、黒田鈴尊その人のすっとぼけたパーソナリティの面白さだ。演奏の合間に話されるのだが、話のオチが見えない、話が飛ぶ、妙なことを口走る。会場はしばしば笑いに包まれたのだが、この空気感、独特でしたね。

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